2010年8月17日 アナログデザイナーのIT変遷記/kasttbs
『明日は、どっちだ?』より引用
先日、マガジン航というサイトに「我はいかにして電子書籍の抵抗勢力となりしか」というエントリーが掲載されていました。著者の中西秀彦氏は印刷業界では論客として有名な方です。この中で、活字から電子組版(DTP化)に完全移行した1994年当時のことを回想しています。
その出版のころ津野氏と語り合ったものだ。「いずれは『本が消えた日』を書かなければならないだろう」と。そのころにはまだイン
ターネットこそ、一般的ではなかったが、パソコン通信は普及しており、パソコン通信で本を読むという形態がそれほど抵抗なくうけいれられていた。失敗は続
いていたが、NEC
のデジタルブックのような電子書籍もすでに商品化されていた。たぶん、それほど遠くない未来、電子書籍の時代は来る。それはもう必然のように感じられた。
今から15年も前、パソコン通信の頃のことです。普通の中小印刷会社の中に、このような考え方は少なかったと思いますし、印刷の必要がなくなるということ
を口に出すのはタブーだったともいえるでしょう。ただし先見の明がある人は、デジタル化が単に作業の効率化を促進するだけのためのものではなく、印刷とい
う「紙」の複製物をさえ無くしていくのかもしれないということを気付いていたはずです。そして、それがいよいよ目の前に迫りつつあるのです。印刷業界とし
ては、今後どのようにしてこれに適応していくのでしょうか。
おそらく電子書籍でも同じことがおこる。極端な話、印刷業界は書籍が紙に印刷されなくなったとき、壊滅する。印刷部門がまったく
必要なくなってしまうからだ。出版社はコンテンツビジネスとして生き残れても我々は生き残れない。幸運な数社は電子書籍コンテンツ制作会社として残るかも
しれないが、ほとんどの印刷会社はなすすべがない。
いわずもがな、これは考え方、経営スタイル、産業形態を一変させるしか答えはないような気がします。美術印刷やシール、エンボスなどの特殊印刷需要は残る
かもしれませんが、既存の「紙に刷る」という形態での産業自体が、現在の業者数と従業員数では存続できるわけがありません。以前の繊維産業などと同じ道を
辿ってしまいかねません。
業界の問題とは別に、出版物の質の問題にも言及されています。紙の出版物は一旦世に出るとその後の修正や回収は難しく、出版前のチェックや出版時の
コストが膨大になるため、出版や再版の決断に慎重を期するようになります。それゆえに、粗雑な、あまりにも中身のない本が簡単に世の中に出るということは
少なかったのです。
中西氏はこのような不安を述べられています。
このフィルタリングが電子書籍にはない。誰でもどんなものでも出版できる。ネット社会の電子掲示板の現状からして極端な
政治的偏向をもった電子書籍が人気を集めてしまうことも予測される。ネット右翼も良識ある評論も同列に電子書籍の土俵で並べられた時、本当に市民社会の良
識は機能するのだろうか。市民社会の良識など今の掲示板やツイッターを見る限り幻想に思える。ソーシャルメディアがよい物と悪い物を自然選択するというよ
うな太平楽はましてや信じられない。
まさしく、同感です。やはり、玉石混合になることは予想され、
mugendai氏のエントリーに佐々木俊尚氏がつぶやかれているように、「キュレーター」は必要になってくると思います。
しかし、印刷業界が電子書籍をいくら否定し紙の魅力を説いてみても、もう世の流れは止められない現実になりつつあります。
そして最後に、
だったら、抵抗するなとあなたは言うかもしれない。いや、私は電子書籍にすばらしい未来があるからこそ、抵抗する。この
ままこの混沌のまま、敗者に一顧だにもしないまま電子書籍を推進するならば、紙の本も電子書籍ももろとも破滅する。もちろん出版文化すべても道連れにし
て。
と書かれているところに、ただ焼け跡になるのを傍観する気はないという意地を見るような思いがします。どこを向けばいいのか、どこをめざせばいいのか?
広告、メディア、出版、音楽、といったコンテンツ産業に関わるあらゆる人間が模索の時期にあることだけは確かでしょう。明日はどっちだ?(by 矢吹丈)
あまりに暑いので、今回はちょっと手を抜いて読書感想文みたいなものを書いてみました。次回はもっと真面目に書きます。本当は、引用元ブログにコメントで書きたかったのですが、コメント不可なんですね。ちょっとCNET Japanブログみたいで残念です。
(引用終了)
via kasttbs.bloggers-network283.com
電子出版は、これまでにも様々な取り組みがなされてきました。端末普及の問題と、コンテンツ流通の問題、課金方法の問題など、実用化のためには様々な課題があったために、そのコンセプト自体は20年も前からありながら、これまで普及してこなかった。
電子出版については松本淳氏の次のブログが示唆に富んだ内容を記しています。
『電子出版は儲からなかった。そして今後も儲からないだろう』(言葉職人のデスクトップから/松本淳)
インターネットは情報流通に関するコストを、劇的なまでに安くした。
映像コンテンツをユーザのもとに届けるために、全国に張り巡らせた巨大な放送設備は、もう、いらない。映像を届けるために、限られた電波という希少なチャネルを使う必要は、もうない。DVDやBlu-Rayといったディスクに記録して在庫リスクを抱えながら店舗というチャネルを通じて販売する必要もない。
新聞や書籍についても印刷し、ユーザのもとに届けるための流通網や小売店、販売店はもう、必要がない。
音楽も、ディスクに記録して小売店を通じて販売する必要は、ない。
いや、これら流通チャネルの必要がないというのは正確ではない。少なくとも、今現在においてはこれらの流通チャネルには存在意義がある。意味がなくなった訳ではない。
しかし、ネットはこれらのコストの高い流通チャネルを介さずに、ユーザにコンテンツを届ける代替手段を提供したということだ。それも極めて安く。
これまでは流通手段は選べなかった。ほかに手段がなかった。
今は様々な手段がある。流通手段についての選択権がユーザとコンテンツ提供者にある。
ただし、現在は、その流通手段が多様化の過程にあり、整理がついていないため、市場として確立しているとはいいがたい。コンテンツに適正な価格をつけ、ユーザから集金する市場の仕組みが確立していない。
コンテンツの流通については今は混乱期にある。過渡期だ。
マスメディア、出版業も含め、今後、流通業としての役割や付加価値、ビジネスモデルを構造改革していく必要はあるだろう。それはずっと以前から指摘されていたことだが、ブロードバンドネット環境の浸透やPCの低価格化、スマートフォン、Kindle、iPadなどの新たな端末の登場、クラウドサービスの台頭、消費者の行動変化、などなどの環境変化により、変革待ったなしの崖っぷちまできているのではないか。
そのあたりの認識は、kasttbs氏のこちらのブログに私は同感です。
『もうマスメディア業界は食べて行けない』(アナログデザイナーのIT変遷記/kasttbs)しかし、これらのメディア業界の問題は、ネットによる中抜きの問題としてとらえるならば、メディア業界だけでなく、流通業界全般の問題と共通である。それはつまり、ネットによる通販によって、メーカと消費者がダイレクトにつながり、中間の流通業が不要になるという問題だ。
実際、ネットによる通信販売はその規模を拡大し、流通業界への影響を徐々に増大させている。しかしその中にあって、流通の役割がなくなった訳ではない。全ての消費者が、ネットを通じてメーカと直接取引するという事態にはいたらなかった。
それは、メーカの直販サイトでは、他社製品との比較ができないからだ。様々なメーカの商材を一ヶ所に集めて比較検討できるという役割が、ネットにおける流通業者の役割だ。機能や価格の比較や人気ランキング、商品レビュー情報の提供などが、新たな流通の役割である。
それは、情報の流通業にとっても同じではないだろうか。商材を集めてユーザに対して比較検討しやすくする。人気やおすすめなどの目利きの役割を果たす。メディアの役割がそういう方向に転じていくのではないだろうか。
【2010年8月20日18:34 追記】
コンテンツの流通コスト低下によって供給量が膨大に増加する。として。ネット上のコンテンツは玉石混交度合いが更に進み、品質の低い情報が量的には増える。しかし、供給量そのものが増えることは質の高いコンテンツの増加にもつながるはずだ。
それでも、コンテンツの量が膨大に増えた場合には、その中から良質のコンテンツを選び出すことが難しくなる。冒頭で引用したブログにあったように、流通コスト低下にともなって、質の悪いコンテンツを排除する仕組みがはたらかなくなるから。本の出版を決めたり、雑誌の特集を企画したりという、流通の前段階において機能していた、情報を選別するフィルタリングの役割の消滅。果たして悪貨は良貨を駆逐するのか。
しかし、我々は現に今、この時代に生きているではないか。今は既に情報爆発の中にある。数年前と比べても、今現在、我々のアクセス可能な情報量は爆発的に増えているのではないか。その過剰な情報環境の中で、実際に我々は情報を選別しながら生きている。うまくできているかどうかは別として。そして現代は情報摂取の量と質の両面において、これまでになく個人差が拡大していることも別にして。とにかく、とりあえず、事実として我々はこの情報洪水の時代の中で、情報を選別しながら生きている。
ネットそのものに情報をフィルタリングするはたらきがはたらいていると私は思う。人気ランキングというのもそのひとつだろう。ネットを経由した流通過程においては、データ集計がしやすいために、今後も様々なランキングが登場するだろう。統計的な情報処理という意味では、グーグルの得意分野という気もする。やれやれ。またしても、か。
ただし、単純な人気ランキングだけでは質の担保はできないかもしれない。ポピュリズムのダークサイドというものがあるからだ。悪しきファシズムにつながる可能性がある。上のブログで中西氏が指摘するように。うーん。それでも私は楽観的だけれどな。掲示板が荒れるのは一部のユーザのみで盛り上がるからじゃないだろうか。参加者の数がもっと桁違いに増えれば、極端な意見というものは相対化され、中和されるのではないだろうか。それは例えば、Wikipediaのように。長期的な視点において、そこらあたり、私はネットのフィルタリング機能について楽観的だ。ただその楽観的な私ですら危惧を抱くのは、過去において、そして現在においても民主主義的な手続きのもとで戦争という選択は現に実行されてきたという事実だ。群集の叡知(Wisdom of crowds)というものは案外、信頼できるが100%ではもちろん、ない。
その意味で、人気ランキング以外のフィルタリングの仕組みとして、専門家による目利き情報提供の意味があるだろう。おすすめ情報だ。本や音楽、映画などのレビュー記事は、どんな新聞、雑誌にも必ず載っているといってもいいくらいの人気コンテンツではないだろうか。
問題は、これらをひっくるめてどんなビジネスモデルにするかということだ。カネをどうやっていくらとるか、という点だ。レンタルビデオみたいな形になるとすっきりするんだけれど。それともうひとつ、コンテンツの価格は、流通コストがなくなる分、ものによっての価格差が今よりずっと大きくなるのではないか。コンテンツそのものに値段をつけるということになると、価格の幅は今よりずっと大きくなるのではないかと思う。ネットでの流通においては価格の変更も容易なので、時間による変化も組み込まれるだろう。価格の柔軟性は大幅に拡大する。需要の少ないものは高くなる。今の専門書みたいなものか。音楽や映画の世界もそうなっていくんじゃないか。需要と供給のバランスが価格に反映するならばそれもよしではないか。
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