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2012/03/18

コメント

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mugendai

テレビがどんどん賢くなるということは、結局人間を退化させることではないのかというテーマで書いたことがあります。それは、
タブレットがテレビになる時http://mugendai.bloggers-network283.com/2012/02/%E3%82%BF%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%8C%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B%E6%99%82.html
というものでしたが、かつて娯楽は映画でした。映画は映画館に行かなければ見ることはできない。テレビが登場して、自宅で娯楽を楽しむことができる。どんどん身近になり、便利になることで人間の行動範囲を狭めてしまい、最終的にその娯楽を手のひらで済ませてしまうことになる。しかし、本来タブレットは人間の行動を制限することではなく、自由に広げることにあったはずです。それがタブレットがテレビになることで、人間を退化させることなる面があるのです。もう一度、人間を退化させることでなく、テレビの情報を積極的に活用させることについて考えていく必要があるのではないかと思ったのです。

鍛冶 哲也

リンクを読みました。

ITリテラシーが断絶をつくる。或いは格差を。その認識においては同感です。

その差を埋める取り組みが必要である。

それは私も同意します。しかしそのために今、猛烈なスピードで進行している変化にブレーキをかけるべきではない。

一番遅い人間に速度を合わせるべきではない。そう考えます。それがたとえ遅い人間を置いてけぼりにすることにつながるとしても。機会は公平であるべきである。だが、それは最後尾にあわせることではない。

テレビしか使えない人間はテレビを使っていればいい。便利なテレビが欲しくてタブレットを買った人間に、ネットやアプリやソーシャルなコミュニケーションなどの新しい可能性への体験の機会を提供することが重要だと思うのです。

その提案や呼びかけにのってこない人間を救済する必要を私は感じない。

それは選択です。

あくまでも自分のことだけに閉じていることを望む人間に、外の世界を理解させることはできない。それは本人の選択です。

外の世界とつながることがこんなに簡単になったのに、それを拒むということはそういう選択をしたのだというしかない。

家畜でいたいと望む人のことは方っておけよというのが私のスタンスかもしれません。そうじゃないあり方へのチャンスは平等にあるべきだと思います。

家畜でありたいと強く望む人の説得を私はしたいと思わない。

ちょっと極論かもしれません。というか、家畜という言葉自体がアウトかもしれませんね。

鍛冶 哲也

技術開発という点において、それをちゃんと企業内で評価しない制度に問題がある。

ちきりんのブログで本テーマに少し関連するような投稿がありました。

「エンジニア人生のリアル」Chikirinの日記 http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20120324

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