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投稿情報: 2010/08/29 12:00 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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近頃はFAXの誤送信防止についてうるさくなってきています。
機械の方で、なるべくミスを少なくするような機能をもてないか、考えてみました。
(1)送信取消ボタン方式
受信側のFAXがまずはいったんメモリに蓄積。
送信側が送り先に電話をし、受信したFAXのディスプレイに送り側の電話番号の表示がされていることを確認してもらう。
確認ができたら再び送信側のFAXで送信完了ボタンを押すことで、受信側FAXで紙に打ち出す。
電話した相手側のFAXに送信側電話番号が表示されない場合は誤送信なので、送信側で取り消しボタンを押す。
取り消しボタンにより、実際に送った先のFAXではメモリが消去される。(これでなかったことにできる。)
※この方式を実現するためには、送信側、受信側が同じ機能を備えていなければならず、メーカ共通の標準機能として規格化することが必要。更にこの機能を備えたFAXが普及しなければ意味がないので、次世代規格ということか。
(2)会社名をしゃべるFAX
送信時に、データを送る前にまず相手側のFAXから登録された会社名の情報が送信側FAXに送られてきて、送信側でそれを音声合成により読み上げる。
送信者がその会社名を確認して、よければ送信実行ボタンを押すことにより、FAXデータの送信が開始する。
※これも(1)と同様、この機能が規格化され、普及することが前提となる。どこかのメーカ1社だけが対応しても意味がない。
(3)電話番号読み上げFAX方式
送信時にFAXがダイヤルされた電話番号を音声合成により読み上げる。
それを聞いて確認し、再度送信ボタンを押すことで実際に送信を開始する。
(4)でっかいボタンとディスプレイ方式
ダイヤルボタンをでかくする。とにかくでかく。手のひら全体で押し込むくらいにでかく。アクションが大きくなることでダイヤルすることについて注意が高まる。
ダイヤルした電話番号を表示するディスプレイをでかくする。とにかくでかく。従来とは桁違いに大きくすることで視認性を向上する。
投稿情報: 2010/08/28 18:31 | 個別ページ | コメント (2) | トラックバック (0)
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2010年8月17日 アナログデザイナーのIT変遷記/kasttbs
『明日は、どっちだ?』より引用
先日、マガジン航というサイトに「我はいかにして電子書籍の抵抗勢力となりしか」というエントリーが掲載されていました。著者の中西秀彦氏は印刷業界では論客として有名な方です。この中で、活字から電子組版(DTP化)に完全移行した1994年当時のことを回想しています。
その出版のころ津野氏と語り合ったものだ。「いずれは『本が消えた日』を書かなければならないだろう」と。そのころにはまだイン ターネットこそ、一般的ではなかったが、パソコン通信は普及しており、パソコン通信で本を読むという形態がそれほど抵抗なくうけいれられていた。失敗は続 いていたが、NEC のデジタルブックのような電子書籍もすでに商品化されていた。たぶん、それほど遠くない未来、電子書籍の時代は来る。それはもう必然のように感じられた。今から15年も前、パソコン通信の頃のことです。普通の中小印刷会社の中に、このような考え方は少なかったと思いますし、印刷の必要がなくなるということ を口に出すのはタブーだったともいえるでしょう。ただし先見の明がある人は、デジタル化が単に作業の効率化を促進するだけのためのものではなく、印刷とい う「紙」の複製物をさえ無くしていくのかもしれないということを気付いていたはずです。そして、それがいよいよ目の前に迫りつつあるのです。印刷業界とし ては、今後どのようにしてこれに適応していくのでしょうか。おそらく電子書籍でも同じことがおこる。極端な話、印刷業界は書籍が紙に印刷されなくなったとき、壊滅する。印刷部門がまったく 必要なくなってしまうからだ。出版社はコンテンツビジネスとして生き残れても我々は生き残れない。幸運な数社は電子書籍コンテンツ制作会社として残るかも しれないが、ほとんどの印刷会社はなすすべがない。いわずもがな、これは考え方、経営スタイル、産業形態を一変させるしか答えはないような気がします。美術印刷やシール、エンボスなどの特殊印刷需要は残る かもしれませんが、既存の「紙に刷る」という形態での産業自体が、現在の業者数と従業員数では存続できるわけがありません。以前の繊維産業などと同じ道を 辿ってしまいかねません。業界の問題とは別に、出版物の質の問題にも言及されています。紙の出版物は一旦世に出るとその後の修正や回収は難しく、出版前のチェックや出版時の コストが膨大になるため、出版や再版の決断に慎重を期するようになります。それゆえに、粗雑な、あまりにも中身のない本が簡単に世の中に出るということは 少なかったのです。
中西氏はこのような不安を述べられています。
このフィルタリングが電子書籍にはない。誰でもどんなものでも出版できる。ネット社会の電子掲示板の現状からして極端な 政治的偏向をもった電子書籍が人気を集めてしまうことも予測される。ネット右翼も良識ある評論も同列に電子書籍の土俵で並べられた時、本当に市民社会の良 識は機能するのだろうか。市民社会の良識など今の掲示板やツイッターを見る限り幻想に思える。ソーシャルメディアがよい物と悪い物を自然選択するというよ うな太平楽はましてや信じられない。まさしく、同感です。やはり、玉石混合になることは予想され、mugendai氏のエントリーに佐々木俊尚氏がつぶやかれているように、「キュレーター」は必要になってくると思います。しかし、印刷業界が電子書籍をいくら否定し紙の魅力を説いてみても、もう世の流れは止められない現実になりつつあります。
そして最後に、
だったら、抵抗するなとあなたは言うかもしれない。いや、私は電子書籍にすばらしい未来があるからこそ、抵抗する。この ままこの混沌のまま、敗者に一顧だにもしないまま電子書籍を推進するならば、紙の本も電子書籍ももろとも破滅する。もちろん出版文化すべても道連れにし て。と書かれているところに、ただ焼け跡になるのを傍観する気はないという意地を見るような思いがします。どこを向けばいいのか、どこをめざせばいいのか? 広告、メディア、出版、音楽、といったコンテンツ産業に関わるあらゆる人間が模索の時期にあることだけは確かでしょう。明日はどっちだ?(by 矢吹丈)
あまりに暑いので、今回はちょっと手を抜いて読書感想文みたいなものを書いてみました。次回はもっと真面目に書きます。本当は、引用元ブログにコメントで書きたかったのですが、コメント不可なんですね。ちょっとCNET Japanブログみたいで残念です。
(引用終了)
電子出版は、これまでにも様々な取り組みがなされてきました。端末普及の問題と、コンテンツ流通の問題、課金方法の問題など、実用化のためには様々な課題があったために、そのコンセプト自体は20年も前からありながら、これまで普及してこなかった。
電子出版については松本淳氏の次のブログが示唆に富んだ内容を記しています。
『電子出版は儲からなかった。そして今後も儲からないだろう』(言葉職人のデスクトップから/松本淳)
インターネットは情報流通に関するコストを、劇的なまでに安くした。
映像コンテンツをユーザのもとに届けるために、全国に張り巡らせた巨大な放送設備は、もう、いらない。映像を届けるために、限られた電波という希少なチャネルを使う必要は、もうない。DVDやBlu-Rayといったディスクに記録して在庫リスクを抱えながら店舗というチャネルを通じて販売する必要もない。
新聞や書籍についても印刷し、ユーザのもとに届けるための流通網や小売店、販売店はもう、必要がない。
音楽も、ディスクに記録して小売店を通じて販売する必要は、ない。
いや、これら流通チャネルの必要がないというのは正確ではない。少なくとも、今現在においてはこれらの流通チャネルには存在意義がある。意味がなくなった訳ではない。
しかし、ネットはこれらのコストの高い流通チャネルを介さずに、ユーザにコンテンツを届ける代替手段を提供したということだ。それも極めて安く。
これまでは流通手段は選べなかった。ほかに手段がなかった。
今は様々な手段がある。流通手段についての選択権がユーザとコンテンツ提供者にある。
ただし、現在は、その流通手段が多様化の過程にあり、整理がついていないため、市場として確立しているとはいいがたい。コンテンツに適正な価格をつけ、ユーザから集金する市場の仕組みが確立していない。
コンテンツの流通については今は混乱期にある。過渡期だ。
マスメディア、出版業も含め、今後、流通業としての役割や付加価値、ビジネスモデルを構造改革していく必要はあるだろう。それはずっと以前から指摘されていたことだが、ブロードバンドネット環境の浸透やPCの低価格化、スマートフォン、Kindle、iPadなどの新たな端末の登場、クラウドサービスの台頭、消費者の行動変化、などなどの環境変化により、変革待ったなしの崖っぷちまできているのではないか。
そのあたりの認識は、kasttbs氏のこちらのブログに私は同感です。
『もうマスメディア業界は食べて行けない』(アナログデザイナーのIT変遷記/kasttbs)しかし、これらのメディア業界の問題は、ネットによる中抜きの問題としてとらえるならば、メディア業界だけでなく、流通業界全般の問題と共通である。それはつまり、ネットによる通販によって、メーカと消費者がダイレクトにつながり、中間の流通業が不要になるという問題だ。
実際、ネットによる通信販売はその規模を拡大し、流通業界への影響を徐々に増大させている。しかしその中にあって、流通の役割がなくなった訳ではない。全ての消費者が、ネットを通じてメーカと直接取引するという事態にはいたらなかった。
それは、メーカの直販サイトでは、他社製品との比較ができないからだ。様々なメーカの商材を一ヶ所に集めて比較検討できるという役割が、ネットにおける流通業者の役割だ。機能や価格の比較や人気ランキング、商品レビュー情報の提供などが、新たな流通の役割である。
それは、情報の流通業にとっても同じではないだろうか。商材を集めてユーザに対して比較検討しやすくする。人気やおすすめなどの目利きの役割を果たす。メディアの役割がそういう方向に転じていくのではないだろうか。
【2010年8月20日18:34 追記】
コンテンツの流通コスト低下によって供給量が膨大に増加する。として。ネット上のコンテンツは玉石混交度合いが更に進み、品質の低い情報が量的には増える。しかし、供給量そのものが増えることは質の高いコンテンツの増加にもつながるはずだ。
それでも、コンテンツの量が膨大に増えた場合には、その中から良質のコンテンツを選び出すことが難しくなる。冒頭で引用したブログにあったように、流通コスト低下にともなって、質の悪いコンテンツを排除する仕組みがはたらかなくなるから。本の出版を決めたり、雑誌の特集を企画したりという、流通の前段階において機能していた、情報を選別するフィルタリングの役割の消滅。果たして悪貨は良貨を駆逐するのか。
しかし、我々は現に今、この時代に生きているではないか。今は既に情報爆発の中にある。数年前と比べても、今現在、我々のアクセス可能な情報量は爆発的に増えているのではないか。その過剰な情報環境の中で、実際に我々は情報を選別しながら生きている。うまくできているかどうかは別として。そして現代は情報摂取の量と質の両面において、これまでになく個人差が拡大していることも別にして。とにかく、とりあえず、事実として我々はこの情報洪水の時代の中で、情報を選別しながら生きている。
ネットそのものに情報をフィルタリングするはたらきがはたらいていると私は思う。人気ランキングというのもそのひとつだろう。ネットを経由した流通過程においては、データ集計がしやすいために、今後も様々なランキングが登場するだろう。統計的な情報処理という意味では、グーグルの得意分野という気もする。やれやれ。またしても、か。
ただし、単純な人気ランキングだけでは質の担保はできないかもしれない。ポピュリズムのダークサイドというものがあるからだ。悪しきファシズムにつながる可能性がある。上のブログで中西氏が指摘するように。うーん。それでも私は楽観的だけれどな。掲示板が荒れるのは一部のユーザのみで盛り上がるからじゃないだろうか。参加者の数がもっと桁違いに増えれば、極端な意見というものは相対化され、中和されるのではないだろうか。それは例えば、Wikipediaのように。長期的な視点において、そこらあたり、私はネットのフィルタリング機能について楽観的だ。ただその楽観的な私ですら危惧を抱くのは、過去において、そして現在においても民主主義的な手続きのもとで戦争という選択は現に実行されてきたという事実だ。群集の叡知(Wisdom of crowds)というものは案外、信頼できるが100%ではもちろん、ない。
その意味で、人気ランキング以外のフィルタリングの仕組みとして、専門家による目利き情報提供の意味があるだろう。おすすめ情報だ。本や音楽、映画などのレビュー記事は、どんな新聞、雑誌にも必ず載っているといってもいいくらいの人気コンテンツではないだろうか。
問題は、これらをひっくるめてどんなビジネスモデルにするかということだ。カネをどうやっていくらとるか、という点だ。レンタルビデオみたいな形になるとすっきりするんだけれど。それともうひとつ、コンテンツの価格は、流通コストがなくなる分、ものによっての価格差が今よりずっと大きくなるのではないか。コンテンツそのものに値段をつけるということになると、価格の幅は今よりずっと大きくなるのではないかと思う。ネットでの流通においては価格の変更も容易なので、時間による変化も組み込まれるだろう。価格の柔軟性は大幅に拡大する。需要の少ないものは高くなる。今の専門書みたいなものか。音楽や映画の世界もそうなっていくんじゃないか。需要と供給のバランスが価格に反映するならばそれもよしではないか。
投稿情報: 2010/08/20 07:51 | 個別ページ | コメント (7) | トラックバック (0)
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2010年8月5日 アナログデザイナーのIT変遷記/kasttbs
『Windowsはなぜデザイナーたちに受け入れられなかったか』より引用
Microsoft が Yahoo! にフラれた。まぁ、日本の場合だけですけどね。大体、Bingなんて検索、皆さん使ってますか?
先日のJacquesさんのエントリー『実は多くなかった検索エンジン』によるとBing1998年に「MSNサーチ」立ち上げ(エンジンはInktomi)。
1999年にInktomiとLooksmart併用に切り替え。
2006年にMS製エンジンの「Windows Liveサーチ」スタート。
2009年にBingブランドへ変更。
via jacques.bloggers-network283.com
ということですが、まだ正式な日本語版が出たばかりで、どう贔屓目にみても Yahoo! JAPAN がそれを選ぶとは思えません。
Microsoftは僕にとってはよくわからない会社です。あんなにOSやブラウザのシェアが高く、一時はこの世の春を謳歌していたにも関わらず、 特定の分野においてはそのシェアが完全に逆転しています。知られたところではサーバOSの分野ですが、デザイン・DTPの世界も同様で、 Microsoft、つまりWindowsOSのシェアが未だに圧倒的に低い分野なのです。今更ですが一度は書いておきたかったので、今回はこういう話 を。
仕事道具としての在りし日のMacintosh
デザイン分野(ここでいうデザインは、主に印刷を目的としたグラフィックデザインのことを指しています)でWindowsがまったく無視されてきた というわけではありません。振り返ると、Windowsがデザイン・DTPマシンのOSとして進出する機会は確かにありました。1990年代中頃あたりの ことでしょうか。
前々回のエントリー『我々は完璧ではない』で も書きましたが、この分野のデファクトスタンダードマシンだったMacintoshはあまりにもフリーズやクラッシュが多すぎて、データ消失やOSの再イ ンストール、HDの入れ替えなどが日常茶飯事でした。それでもMacOSやMacintoshを代替できるマシンの選択肢は無く、デザイナーは徹夜をしな がら泣く泣くファイルを作り直し、これを使っていました。
少なくとも実際には、「デザイナーって、Macを使ってておシャレね」などというイメージとは雲泥の差があったといってもいいでしょう。もっと安定 して使いやすい環境が現れたら、それに乗り換えたかったデザイナーやオペレーターは少なからずいたはずです。この時点で、Windowsには大きなチャン スがあったと思います。デザイナーもクライアントとのデータのやり取りではWindowsファイルを扱っており、Windowsも95が主流でビジネス的 にも安定したOSと思われていたため、移行するのにあまり抵抗はありませんでした。
その頃はスティーブ・ジョブズがAppleを追われていて、プロダクトデザインとしてのMacintoshも今のように洗練されていたとはいえない時期です。では、なぜ飛ぶ鳥を落とす勢いだったMicrsoftは、その分野を乗っ取ることができなかったのでしょうか?
満たされなかったWindowsの制作環境
その理由を以下に列挙しますが、かなり敷居が高かったといわざるを得ません。
- 制作アプリケーションの対応が不足
- フォントシステムの問題、印刷レベルのフォントの不足
- ポストスクリプト言語への対応が不足
- WYSIWYGの実現性に問題
- UIの稚拙さ
- Microsoftのデザイン・DTP業界に対するコミットメントが希薄
これらはパソコン上で印刷原稿を制作する上で、つまり、それまでアナログでおこなっていたデザインや版下制作〜製版という作業を、DTPというデジ タル工程で置き換えるためには絶対にはずせない機能や条件でした。これが満たされないパソコン(OS)は、いくら安定していようが価格が安かろうがお話に ならなかったのです。
中でも重要だったと思うのは6番目です。これさえまともにおこなっていたら、大部状況は変わっていて、Appleはもう存在していなかった可能性さ えあります。それだけAppleという企業は、デザイン・DTPを始めとしたメディア要素を制作する業界に強力にコミットメントしていたわけです。
今思えば、当時のMacintoshが頻繁にクラッシュしていたのは、印刷や動画、音楽用のデータという巨大な容量のファイルを常にハンドリングし なければならなかったことにも原因があったような気がします。WindowsのOfficeファイルのようなデータ量とは桁が違うのですから、例えばビジ ネス用途で使うWindowsマシンで印刷データを扱っていたとしたら、とても安定していたとは思えません。
クラウド環境、電子書籍の時代にWindowsはどうする
その後、Appleは瀕死の危機を迎えたものの、ジョブズが復帰し、MacはUNIXベースのOS(今に続くXシリーズ)を採用して安定性を増し、 復活していくことになります。この頃から、アプリケーションやフォントの対応状況はユニバーサルになりWindowsOSでも遜色なく使えるようになるこ とはなりました。
しかし、Windowsディスプレイのカラー表現の問題や、いかにもMacOSXの後追いをしているとしか思えない中途半端なUIは、何よりも正確 さにこだわり人マネが嫌いなデザイナーたちが、作業環境としてのWindowsに食指を動かせない原因になっていることは否めません。
Webデザインの分野ではWindowsのシェアもそこそこ高いので、DTPが印刷というものを前提としない時代になる今後に、はたして、 Windowsがその分野のプロ制作者たちのシェアをMacから奪うことが出来るのかどうかは見ものです。ただし、iPhoneやiPadという AppleマシンがOSとともに跋扈し始めている現状では、かなり心許ないことではあります。MicrosoftがAdobeを買収…とかになったら話は 別ですけども。 (引用終了)
私はMacOSについては、ちょっと触ったことがある程度ですが、OSとしては非常によくできた美しいものだというイメージがあります。プラグアンドプレイであったり、出た当初からオーディオファイルや画像などのマルチメディアデータの取り扱いを想定していたりとか、操作性、アイコンデザイン、アプリのインストールやアンインストールの簡単さなど、とてもよく考えられた洗練されたOSだったと。
自由度が高くて、リベラルなツールというイメージがあります。
ただしかし、あのフリーズの多さがやはり問題としては大きかったのでしょうね。
Windowsには、あまりいい印象はありません。バージョンが変わるたびに、結構、見た目は大きく変わったような気がしますが、それがよい方向に変わったという感じがしない。アイコンに影がついたり、画面の切替にアニメーションがついたりしても、ふ~んて感じ。余計なとこにリソース使って。みたいな。Vistaの時はその辺の画面の効果は止めて使っていました。
Windowsの発明は、右クリックですかね。コンテキストに従ったメニュー表示は確かに便利。
今使っているWindows7については満足しています。本来、OSなんてもんはその存在を意識させちゃいけないようなもんじゃないかという気がしますけど。
OSといえば、iPad がひとつの革新をもたらしたのだと思いますが、売れ行きはどうなんでしょうね。発売当初こそ売り切れ品薄入荷待ち状態でしたけど、今はどうなんでしょう。あんまり爆発的に売れてるという印象もないんですけど。お財布シェアの点で、iPhone4とカニバっちゃったかもしれません。それでも、iPadは、長期的にみれば普及・浸透していく商品だと思います。WindowsのタブレットPCとは設計思想が違うからね。Windowsをタッチで操作するんじゃなくて、タッチを前提としてOSを根本から創ってる訳だから。
さて、OSの話題といえば、あとはGoogleのChromeOSですね。どんな感じなんでしょう。アプリはサーバに任せてロースペックでサクサク動くPCが登場すれば、更に値段は安くなるんでしょうね。なんか、インドあたりで激安パソコンとかでたらしいし。100ドルどころじゃない、数十ドルレベルの安さだって新聞でみたような気がするけど。スペックはともかく桁違いの値段ですよね。ひとり1台が当たり前になっていくんだろうな。コミュニケーションのツールとして考えるとよい方向だと思う。パソコンにストラップでもデコレーションでもなんでもつければいいと思うよ。でもひとり1台になるには少し時間がかかるかもだなぁ。どんなに安くたって、必要がない人は買わないもんね。
それにしても、パソコンが消耗品になる時代がすぐそこだってことだ。コモディティ化。使い捨てパソコンとかね。出張先で買って、その時だけ使って、後はリサイクルとか。そこまでいかなくっても、2年おきくらいでパソコン買い換えてたら、快適に使えるんだろうなー。
って、なんだかとりとめのない話しになってしまいましたが、この投稿の本来の目的は、上にあげたkasttbsさんのブログを全文引用したかった、ということなんであります。面白かったから。
多謝
投稿情報: 2010/08/19 06:48 | 個別ページ | コメント (3) | トラックバック (0)
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2010/08/08 10:52 Windowsラブなただの主婦/加藤和江 『Windows7が成功した理由』 より引用
http://japan.internet.com/busnews/20100804/12.html
案の定、VistaユーザーよりもWindows7ユーザーのほうが多くなりました。過去の売れ行きからいって、最速のシェア獲得だったのではないかと思います。
上に引用した加藤さんのブログによると、Windows7は、Microsoft社の独自基準を貫き通すのではなく、既にある程度広がった業界標準技術を取り入れているそうです。
私の場合は主に、自宅のノートパソコンで使っております。ほとんどWebをみたりブログを書いたりくらい。ほかのアプリはほとんど使っておりません。
そんな私にとってWindows7のメリットとは、ただとにかく起動とシャットダウンが速いということにつきます。この印象は数ヶ月間使っていても変わりません。
何と言ってもその前のVistaが重くて重くて、使うときにかなり相当のストレスになっておりましたので、それとの比較ではかなり改善感が得られているのかもしれません。
昨年11月の導入当初のブログ『Windows7の功罪』においても、起動の速さを最大のメリットとしてあげております。
ちなみに今年の2月に書いたブログでもiPadへの期待感として起動の速さにコメントしておりましたです。『iPadのもしかしたら最大のメリット』
投稿情報: 2010/08/08 21:57 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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2008/03/08 コモディティ ネットの未来記
マーケティングについて語る場合、一般的にはいかにしてコモディティにならないようにするか。汎用品としてのドングリの背比べのような市場競争、価格競争からいかに抜け出してオンリーワンの価値を創り出すか。そのための付加価値をどのように設計するか。ということが問題となります。
しかし、こと、ネットでのサービスについて言うと、いかにして毎日の日常生活に密着し、日用品となるか。生活必需品としてのコモディティとなるか。その点がサービス戦略のポイントになるのではないでしょうか。
これはネットのサービスのビジネスモデルが、多くは広告モデルとなっていることによるもの。テレビも新聞も、コモディティと言えばコモディティ。
ただ、テレビや新聞も、同業者間での競争はもちろんあって、競合会社の数は他の業界に比べると少ないとはいえ、その中での競争はある。テレビの場合は、番組単位での競争もある。つまりコンテンツ単位での競争。
例えば検索サービスがコモディティ化しているとしても、その中でグーグルとヤフーのどちらが選ばれるかという競争はある訳で、その意味では他の業界と変わらない。
via denkiami.bloggers-network283.com
通常、ビジネスにおいてはコモディティ化を嫌い、他社との差異化を狙うのがセオリーだが、ネットにおいてはいかにして日常的に利用されるかがポイントであり、日頃から当たり前のように使われるコモディティを目指す戦略がありえるのではないか、というアイデアを、生煮えながら2008年に上のブログで書きました。
当時はまだ、明確に認識はしていませんでしたが、日常生活に密着しているといえる程、認知が定着していない当時のGoogleの検索サービスのようなスタートアップ、まだまだこれからの成長ポテンシャルをもった企業においては、とにかく他社との競争よりもなによりも、サービスの認知度を向上し、使ってもらうこと、コモディティ化を目指すことこそが最優先の経営課題となるのではないか。漠然と、そんなことを考えておりました。
2008年当時の私の認識の中では、ワールドワイドでは無敵なGoogleも、日本においてはYahoo! Japanに大きな差をつけられており、記憶は曖昧ですが、国内での検索シェアはYahoo! 6割、Google 3割くらいで、ダブルスコアの差があったように思います。今でもそうですが当時においても日本の中ではインターネットのアクセス数ではYahoo!Japanが異常に強かった。ダントツに突出していた。
世界的には圧倒的な検索市場シェアをもっていたGoogleも、なぜか日本ではYahoo!に全く勝てなかった。私の認識では検索サービスの品質ではGoogleの方が優れていたにもかかわらず。広告の世界ではテレビで言うところの視聴率、ネットの場合はページビューの多さが広告としての価値を決めます。それゆえ、利用者にとってはタダでも、とにかく利用の回数をボリュームとして増やすことが広告の課題となる。
それは、Yahoo!JapanにしてもGoogleもmixiも価格.comもCNET Japanも日経ビジネスオンラインにしても同じ。モバゲーやGREEにおいても、ユーザ課金の点で若干ビジネスモデルの違いはあるにしても、ユーザ数の獲得が課題であるという意味では同様の状況にある。
それはつまり、まだ成熟市場となっていない、成長途中の市場においては、他社との差別化以前に市場を広げること、パイを大きくすることが事業としての目的となる。消費者の日常生活においていかに利用を増やすかが課題となる。その意味において、ネット企業にあってはコモディティ化を目指すことが戦略的課題となるのではないか。そう考えたのです。
さて、そんな中で、Yahoo!Japanが検索エンジンにGoogleを採用するというニュースがありました。
Yahoo!JAPAN、Googleの検索エンジンと広告配信システムを採用 正式発表 ( IT media より)
日本のネット市場においては、圧倒的なシェアをもつYahoo!Japanが、Googleと手を組む。ネットの中でも検索という領域においてはGoogleはワールドワイドでは圧倒的なシェアをもちながら、なぜか国内においてはどうしてもYahoo!Japanに勝てないGoogleが、その当の競争相手であるYahoo!Japanと提携する。
日本のナンバーワンと、日本では勝てないが世界のナンバーワンが手を組む。そのインパクトは大きい。先にあげたIT mediaの記事によると、両者をあわせた国内の検索市場シェアは9割に達するという。市場支配率9割は異常だ。もともと国内で圧倒的なシェアをもつYahoo!Japanが、世界最強のGoogleと手を組んだら、日本のネット企業は太刀打ちできない。検索におけるひとり勝ち状態が生まれる。
Googleの検索に表示されなければ、日本でネットの商売はできないということに等しい。では、Googleは公平か?今の段階においては、Googleは比較的フェアにやっているとは思う。おかしなことをやるヘンな会社ではない。企業文化としてはこれまでのどんな企業とも異なるへんな会社ではあるけれど、サービスの品質は高いし、独占をたてに取ったおかしなことはしていない。人気商売ということもあって、かなりフェアな会社だと思う。
しかし、Google八分という言葉が現にあるように、Googleに嫌われたらネットでは商売できない。決定権がGoogleにある。それが9割に及ぶということは、異常といわざるを得ないのではないだろうか。
この市場独占に対して、Microsoftが異議を唱えている。
「Yahoo! JAPANとGoogleの提携は競争を排除」とMicrosoft (IT media より)
この件に関しては、私はこのMicrosoftの意見に賛成だ。最強同士の提携は、そのパワーが圧倒的に過ぎると思う。誰も太刀打ちできない。
インターネットの世界において、検索という機能はとても大切なものである。検索機能がなければ、ネットは使い物にならない。ネットは、誰でも簡単にアクセスできるという点で、革新的な技術である。そのオープンさが、これまでにないコミュニケーションの手段を提供している。それは革命的なチカラであり、今この瞬間にも世界を変え続けている。
そのネットを便利なものとしているのは検索サービスだ。膨大な、大量の情報を蓄積するネットは、検索なくして使い物にならない。蓄積と検索。それはコンピュータの本質である。人間の手作業では到底不可能な規模で、コンピュータはそれを実現する。
検索は、ネットにおいて極めて重要な機能である。私自身も、今、書いているこのブログで、検索のヒット率の悪さに苦労しているところだ。検索でヒットしなければ、アクセス数は集まらない。どんなにいい記事を書いても、検索にのらなければみられることがない。みられなければ、ブログなんて意味がない。その意味ではコンテンツの評価をGoogleが下しているようなものだ。現在ですら既にそのような状況にある。それを、両者の提携が更に強化することになる。Googleに評価されなければ、その価値はゼロになる。Googleが、唯一の審判者になる。
その意味がわかっているのだろうか。のんきなことをいっている場合ではないと思うのだが。
投稿情報: 2010/08/01 04:06 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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