ラジオのパーソナリティ、小島慶子という人のインタビュー記事がおもしろかった。いろいろ考えさせられることがあった。マスメディアの人ならではの人間観というか、そんなものやビジネス、マーケティングの感覚なんかも。ネットの登場によって、一般ピーポーにもマスメディアの人的な価値観というものは広がり始めているように思う。
「あなた」に向けてしゃべっています━小島慶子インタビュー 2012.03.23 ~BLOGOS
ラジオのパーソナリティとしての他者との出会い。ラジオの向こう側にいる、顔の見えない他者。その中の何人かと共感を結ぶことができれば、それが自分にとってのラジオでしゃべるということの意味なんだ。なんだか実存哲学のような話しでおもしろかった。
すべてはまぼろしかもしれない。何もかも。「信じる」という裏づけがないならば。しかし「あなた」という他者の存在が、その善意が信じられる瞬間も確かに存在する。それが感じられたら、言い換えるとそれを信じられたなら、それは自分にとっての真実となる。自分にとっての確かな「あなた」という他者の存在は、自分の中にしかない。
商品になるものだけに価値がある。売れるかどうか、商品になるかならないかという価値観。そういう流れに違和感がすごくあると小島氏は言う。マスメディアの人ならではの感覚ではないかと私は思う。普通のサラリーマンは自分の存在が商品として価値があるかどうかなんて考えてない。と、思う。なので、むしろもっと自分の市場価値というものに対しては自覚的であるべきだと私なんかは思うのだ。
そのために資格をとったりすることは、私にとっては順番が逆!ではあるけれど。資格というものは狙って努力しないと取れないものだと思うけれども、資格は目的ではないと思うから。目的についてとことん考え抜く必要がある。自分の市場価値について。
個人としてどうなのよ?ということだ。仕事の能力でも人間的魅力でも。
人間は情報のカタマリである。人格とは記憶である。記憶を失くした時、その人固有の人格もまた失われる。人の中に蓄えられた情報は、バラバラにあるのではなく、その人の経験によって相互にひも付けられ、連想として関連付けられている。人間の精神とはそのように相互に関連付けられた情報の体系である。そして。人間は情報の体系であるという私の人間の定義にそくしていうとその価値とはインプットに対してどんなアウトプットを返せるか、ということ。それが品質だ。経験の蓄積とその応用力も含めての話。それは言い換えると問題解決力だとも思うが。それは接客業であっても製造業であっても講演やコンサルタントであっても同じじゃないかな。要するにそのアウトプットに対して他者が価値を認めるかどうかということだ。それが市場性だ。
価値のある商品をつくる腕があれば、その技術には価値がある。或いは商品を改善していくノウハウがあれば、そのノウハウないしスキルには価値がある。営業職の場合であれば、アウトプットとしての語りや行動が顧客から信頼を勝ち取ることができるならば、そのアウトプットに価値があることになる。「営業マンは自分を売り込むことが仕事だ」というのは、商品を売り込む前にまず、自分のことを信用されることが必要だからだ。
いずれにしてもアウトプットに対して他者が価値を認めるかどうか。商売においては、その価値に対して対価を払うかどうかという問題になるのだが、商売以外のシーン、すなわちプライベートな日常生活においても同じことではないだろうか。自分のアウトプットが他者に対してどのような影響を与えるか。快か不快か、或いは無関心か。コミュニケーションとはアウトプットの交換だ。そのことに価値を感じられるのであればその相手はコミュニケーションを交わす価値ある人物だということになる。
それはインプットに対してどのような付加価値をつけたアウトプットを返せるかという情報処理システムとしての品質の問題であると考える。ガキのような行動や会話しかできない人もいる。そういう人の品質は低いと私は感じるのだ。ヲイヲイ、もっと大人になってくれよ、と。
問題が複雑になるのは、そのアウトプットの品質について、他者がそれを評価しないものについては価値がないのかどうかということだ。市場価値について言えば、他者が評価しないものに価値はない。それはシンプルな事実。だが価値というものは市場価値だけではない。誰も評価しないが、本人にとっては絶対的な価値というものもある。例えば芸術作品について、100万人にひとりだけ、その価値を理解しその保護のために1億円だしてもいい、というケースはありえる。時代に理解されない天才という存在は実際にこれまでもあった。
それは個人の問題であろうとは思う。普通の人には理解できない、天才にとっての価値というものもあるだろうし、同じようなシチュエーションでも他人には理解できないヲタクにとっての至高の価値というものもあるだろうし、フェティシズムみたいなものもある。誰も理解できないが、ひとりだけその価値を絶賛しているものの評価をどのようにすればいい?私にはわからない。市場価値はゼロ。そう言うしかない。しかし精神病理の誰からも理解されない患者の描いた作品が後の世で絶賛されることがないと誰に言い切れる?しかもそんなことはほとんどありえない。けれどもその可能性はゼロではない。だからそれは個人の問題なのだ。自分の価値観を押し殺して世間受けする絵だけを描き続けるのか、それとも自分の価値観にあくまでもこだわり売れない絵を描き続け、自分だけの世界を追求し続けるのか。どちらが本人にとって幸せなのか、それは自分の選択だ。自分の死後に自分の作品がどんなに高い評価を受けようとも、それを自分が知ることはない。描いても描いても誰にも理解されないというのは苦難の選択だ。だが自分の価値観を押し殺して世間ウケのする絵を描き続けるということもそれはそれで苦しいことであるだろう。自分の美学と世間の評価。どちらを優先するのかは、極めて個人的な選択であろうと思う。自分が満足するのはどちらの道なのか。そういう意味で、私はたとえマスターベーションと呼ばれようとも自己満足の世界を否定することができないのだ。自分の世界を追求するということは正しいことだと私は思うのだ。
そして話しを戻すと、「商品になるものだけに価値がある」という考え方もおかしなものだと思うんだ。逆。「価値があるから商品になる」。言い換えると、商品にならなくても価値があるものはいくらでもある。楽しい会話とかってその典型でしょう。含蓄のあるブログ記事は商品じゃなくても価値があると感じるでしょう。
価値というのは難しい問題だ。
だがその基準が自分の内にあるか外にあるかというのは大きな分岐点だ。外においてはいけないと私は思う。強く強くそう思う。外面ばかり気にしているのは絶対に間違いだと私は思うのだ。基準は自分の内にあるべきだ。
それは商売人と芸術家の違いかもしれないが。商売人にとっては売れるかどうかが全てだ。売れないものには価値がない。それが商売人の価値観だ。芸術家にとってはそうではない。売れるかどうかの問題ではない。心を動かすかどうかの問題だ。
だが、人間の存在というものは、その両方に足をかけている存在ではないかと思う。大抵の人は。両義的なのだ。バランスの問題なのだ。他人の評価を全く気にかけない人はいないのではないかと思うのだ。
それが、この世に生きることの複雑さでもありおもしろさでもあると私は思うのだ。
私のこのブログは、世間的な評価は低いが、それでも私は自己満足のために続けている。自分ではおもしろいと思っているからだ。実際、自分の過去のブログを読むとおもしろいよ。自己満足でもそれでいいと思う。
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