子供、配偶者、部下、同僚、はたまた 親御さんへの今年だから「伝えたい言葉」を、[お題]とします。奮っての記事エントリ、コメントをよろしくお願い致します。
via tomono10.bloggers-network283.com
2011年は今後、日本を大地震が襲った年として記憶されていくでしょう。2万人もの人が地震と津波で亡くなった。ありえないような光景を映像として多くの人が体験した。恐怖を共有した。
海外では、中東の春と呼ばれる政変もあった。いくつもの独裁的政権が市民のデモ行動によって揺さぶられた。それが果たしてよかったのかどうか。その答えはまだでていない。評価は歴史に委ねられている。今はしゃにむに前へ進むしかないだろう。
2011年は常識を覆すような出来事がいくつもあった。
私が今年だから伝えたい言葉は、「ここから前へ」。
日本の原子力政策がこれからどうなっていくのか、まだわからない。とても不透明な状況です。沖縄の米軍基地問題がこれからどうなっていくのか。日米関係は、日中関係は、アジアの軍事バランスは?
しかしそれでも前へと進むしかない。
物流や情報処理・情報流通のコストダウンと量的拡大によって、経済的な側面においては世界の相互依存関係がかつてないほど大きくなっている。その意味では確かに世界は小さくなっている。そしてお互いがお互いに与える影響が拡大している。無関係ではいられない。ヨーロッパの銀行がもしもこけたらその影響は日本の経済にとっても対岸の火事では済まない。一蓮托生。
だがそうした経済相互依存化に政治的解決能力が追いついていない。問題解決力は今も足りていない。
だから、新しい関係を創っていく必要があるのだろうと私は思う。
時代は大きな転換点の途中なのだと思う。歴史的な規模の変化はまだ途中なのだ。まだ変わり続けている。大きな規模で。今は大きな、とても大きな歴史的転換点の最中なのだ。
私は20世紀末に始まったインターネット革命がまだ続いていると考える。そのうねりは今もまだ、いろいろなものを変え続けている。もっと変わるだろうと私は思う。それこそ何もかも。
20世紀につくられた制度は変わるだろう。これからも。変化は続くだろう。
その原因はコンピュータだ。そのコストが下がり、性能が向上したことにより、コンピュータによるデータ処理の対象範囲が広がっている。従来、人手を介して行われていたことや一定の期間を設けて集計した後に対処されていたものごとが、コンピュータ化によってリアルタイムに合理的に、タイムラグなしで処理されるようになっている。数字は誤魔化せない。クリアになっていく。コンピュータ化は集計を効率化する。中間での管理を不要とする。フラット化を促進する。ヒエラルキーの中間部分での非合理性を暴く。
それに加えてインターネットによる(1対1ではない)多対多のコミュニケーションが、情報のやり取りを活発化させる。隠せない時代が来ている。
この変化に適応する必要があるだろう。変化を拒んでも淘汰されるだけだろう。何故ならこの変化は誰も経験したことのない変化だからだ。大きな変化だからだ。小さく縮こまっていればやりすごせるようなしろものではないからだ。淘汰されるだろう。
だからこそ、前へ進む必要がある。
既得権益を守ろうという考え方は根本的に誤っている。この変化はそんななまやさしいものじゃない。合理的なものだけが残ることができるだろう。
2010年10月17日の「続々 しあわせって何だっけ?」という投稿でこんな言葉を私は書いている。
「今日と同じ明日がある」という確信に根拠はないのだ。
その意味では、「明日は何があるかわからない」という不安とともに今日を生きることは、あたり前な、普通のことだ。「明日への不安」なんて誰だってフツーに持っている。そんなのはあたり前なことで、そんなことにいちいち悩んでいたら、「今を生きる」ということさえおぼつかない。
「明日は何があるかわからない」という不確定性。逆に言えば、それは「世の中なんて変えられる」という楽観論でもありえるはずだ。「明日のことなんてわからない」ということに対するポジティブな楽観論である。「明日のことなんてわからない」ということに対する、不安と楽観の姿勢の違いである。それって単に気の持ちようではないのか。「わからない」から不安に感じるのか、「わからない」から面白いと感じるのか。そういうことではないか。
安定を求めるということは、ある意味、本能的なことであろうとは思う。それは現状肯定な姿勢である。だがしかし、「変化を求める心」というのもあってしかるべきではないのか。もっとよい世界を望むこと。「ここではないどこか」を探し求める気持ち。
「希望」という言葉は、現状肯定ではなく、もっとよい生活を望むそんな気持ちではないだろうか。
「世の中なんて変えられる」という楽観論よりも、「所詮、世の中こんなもん」、「世の中を変えるなんて無理」という現状肯定、悲観論が主流となっているのが今の現状かもしれない。
世の中に対して、自分が与えられる影響なんて無に等しいという、そんな感じが「世の中を変えるなんて無理」という前提につながっているのかもしれない。まあ確かに、「俺が世界を変えてやる」なんて考えは傲慢不遜な考えかもしれないが、でもそんなチャレンジがいくつもいくつもつながれば、世界は変わっていくんだろうと私なんかは思う。自分ひとりでは無理でも、同じように考える人たちが連携すれば、世の中変わっていくだろうと私は思う。「同じ思いを持つ」という人たちが連携することの可能性は、ネットによってすんごく大きくなったと思うんだけどな。
「ネットが世の中変えていく」ということに対して、もっと信じてもいいんじゃないかと私は思う。小さなところから変えていけばいいじゃん。それが私のネットについての楽観論。
この変化に、私は希望をもっている。新しい世の中が創られてゆくことに。
そして私がデジタルネイティブに強い関心と希望を寄せているのも同じ理由によっている。
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