もの心ついた時からインターネットやケータイを使いこなし、ネットを通じたコミュニケーションをあたり前のものとして育ったデジタルネイティブ世代の人たちは、それ以前の世代と比べてコミュニケーションについてのあり方が異なっているのではないか。
私はそのように考えています。そして人格というものが、人間同士の関係によって作り上げられていると考える私は、デジタルネイティブという世代がそれ以前の世代とはかなり大きな違いを持っているのではないかと思う。
その、私から見ればデジタルネイティブな世代の大学生がブログで自分はネイティブではないという内容を書いていました。
デジタルネイティブと言い切れないもやもやとディスプレイに浮かぶ文字の強さ haruna26
ケータイもインターネットもあってあたり前のコミュニケーション手段。だがしかしデジタルネイティブと呼ばれることについては違和感を覚えるという。パソコン(=インターネット)はあたり前の存在ではなかったというのだ。それは親からは認められず、隠れて使う、背徳感のともなうものであったという。ネットのコミュニティを利用したり、ホームページをつくったりということは、親だけではなく友達からも隠しておきべきことであったという。
この筆者haruna26さんのように小学生の頃から自分でホームページをつくっていた人は、いくらデジタルネイティブといえどもそれ程多くはなかったのではないだろうか。それゆえにネットでの体験はリアルな友達とは共有ができなかったんではないかと想像する。リアルな友人関係とは別な人間関係をネット上で持っていたということだ。先のブログにも「ケータイは“こっち側”のコミュニティの延長だった」という言葉がある。パソコン(=インターネット)はそうではなかったということだ。それは、別の世界だった。
そのブログから少し引用する。
わたしたちのコミュニケーションの重要な部分はケータイのメールとブログだったし、そこに繰り広げられてた言葉とやりとりはものすごくリアルだった。
コミュニケーションの希薄化、なんて全然思ってない。場所が変わっただけだ。
積み重ねた言葉はとても生々しかった。時には対面で話すよりずっと。
ケータイを持っていることが当たり前だと、リアルがリアルで完結することなんてまずありえないし、それが前提になる。
「あとでメールするね」が普通で、クラスが違っても仲間内でブログをやって毎日「話してて」、授業中に机の下でケータイを開いて放課後の予定を相談した。
恋とケータイメールは強く関係してた。激しく感情を喚起する文字列もしくは絵文字。
誕生日にデコメを送り合うのって、多くの女の子がやってきたもしくは現在進行形でやってると思うのだけど、あれは特別な相手を慈しむ手段としてとても大事だった気がする。
一生懸命素材を選んで、文章を編む。もらったメールを保護する。手のひらの上の小さな機械に閉じ込める。
保護したメールはずっと側にある。なんだか気分が落ち込んだときに「保護メールフォルダ」をひらいて今までもらった嬉しいメール、幸せな気持ちになれるメールを読む。
これを読むとやっぱりオールド世代の私とはコミュニケーションのあり方が違うと感じる。小学生、中学生、高校生の頃の私のコミュニケーションは、対面以外になかった。手紙なんて年に何回も書かなかったし。知り合いはリアルに会ったことのある人しかいなかった。会ったことのない人と知り合いになる機会なんてありえなかった。
コミュニケーションのやり方が変われば、それは生活のあり方や考え方や行動に影響を与えるだろう。私はそう考える。かなり深いところに影響を与えるのではないだろうか。認識の枠組みに変化が現れるのではないか。
更にそれは社会的存在としての相互承認のあり方にも変化をもたらすであろう。それはつまり「肩書き」というものが無効化する方向に向かうのではないだろうか。社会的地位とかそんなものではなく、日常のコミュニケーションや発信そのものによって評価や承認が行われる社会。
それは梅田望夫が「ウエブ進化論」で書いたような、ブログが名刺代わりになる社会だろうか。今だとFacebookも加わることになるかもしれないが。
haruna26さんは、ケータイもパソコンも禁止の対象であって親の価値観からはポジティブなものではなかった。「あたり前のように」あったものではなくて、親に隠れ後ろめたさを感じながら苦労してつきあってきたものだという。それ故にデジタルネイティブという言葉に違和感を感じる、と。なるほど、このあたりは大人になってからインターネットに触れ、つきあってきた私なんかとは異なる体験だ。
とはいえ、それは誰もが経験する親の価値観との対立であり、そこにネットという親からすれば得体の知れないものが深く関わっていたということだろう。
コミュニケーションのあり方が、それ以前とは違うという意味で、haruna26さんはやっぱりデジタルネイティブなんじゃないの?って私なんかは思うな。小学生でHTML書いてたなんてやっぱ普通ぢゃないと思うのです。
で、このharuna26さんのブログの冒頭でも触れていますが、これ以前に書いた投稿が同世代中心に大きな反響を呼んだそうです。小学生や中学生の頃のパソコンやケータイとのつきあい方をその当時の感情も含めて具体的に紹介した文章。
デジタルネイティブじゃない1989年生まれのわたしの話 haruna26
この中でもこんなことを書いている。
リアルがリアルで完結するなんて、そもそもケータイと一緒に育ってくるとまずありえない。
パソコンとケータイは別の宇宙だったし、ケータイだけ使ってきた人もいっぱいいるでしょう。とりたてて世代論がすきなわけではないけど、いつ何をどうやって情報として与えられてきたかは決定的だと思う。
テクノロジーがそれにめちゃくちゃ大きい影響与えてる、無意識のレベルで価値観形成されてる、と思います。
「テクノロジーがそれにめちゃくちゃ大きい影響与えてる、無意識のレベルで価値観形成されてる」。
ケータイの宇宙とパソコン(インターネット)の宇宙は別ものだ、とも。それはリアルな人間関係と、バーチャルな人間関係のことでしょう。それらを使い分けている。
このブログに対するTwitterでの反響をまとめたtogetterから、いくつか気になるtweetを引用してみます。
@haruna26 あとharuna26さんが言うように、あっち側とこっち側を分けて考えてないですよね。どっちも同じようにリアルなんですよね。@okmtyj1031
@haruna26 中学の頃、フロッピーディスクで交換日記していました(^^)
■関連記事
広告業界の中の人は、こんなブログを書いています。
広告会社のえらいさんは新入社員の研修なんていってる前に、若い人たちのコミュニケーションの現在について新入社員から教えてもらった方がいい。
広告業界というものがコミュニケーションのプロであることを求められるならその現在の姿を良く理解しなければいけないだろうと。
新しい世代のコミュニケーション行動~業界人間ベム
http://g-yokai.com/2008/05/post-113.php
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2011/12/04 18:47