踊る美少女型ロボットHRP-4C未夢(ミーム)
人間そっくりなロボットの存在意味
前回、前々回のブログでヒト型ロボットの実用性について考えてみました。
前回のブログでリンクを貼った歌って踊れる美少女型ヒューマノイドHRP-4C未夢(ミーム)の開発者インタビューから、一部を引用してみます。
Robot Watch 産総研の女性型ロボ「HRP-4C」開発者座談会(その1) ~今の反応は予想外!? 開発裏話を聞く より引用
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【比留川氏からのコメント】ヒューマノイドロボットの特徴は、人の形をしていること、人のために作られた環境を移動できること、人のための作られた道具をそのまま使えて作業できること、の3点であると主張してきました。これらの中、移動と作業の特徴を活かした応用が実用化されるまでには未だかなりの年数がかかります。そこで、人の形をしているという1番目の特徴を活かした応用、例えば、エンターテインメントとか、人間用の機器や環境の評価とかをまず追求すべきだと考えています。
今回開発したHRP-4Cは、エンターテインメントへの応用を第一義的な応用分野として開発しました。このため、できるだけ人に近い形状、外観を持たせることを目指しました。顔については、人に限りなく近いリアルなものから、キャラクタ的なもの、無機的なものまで検討しましたが、イベント企画等の専門家の意見を取り入れ、人にかなり近いリアルな外観であるが、ある程度はデフォルメを施してキャラクタ的にしたものを選択しました。
――たぶん一般の人が一番聞きたい、一番知りたいことは、あのロボットをどうして作ったんだろうか、ということだろうと思います。どうしてというのはどういうことかというと、あのロボットを作ることで、どんな問題が解決できるんだろうかと。そういうことです。「こういう問いに対してこういう解答が出せる」ということです。問いも解答も、どんなものなのか良く分からないんですが、そういう面で皆さんが考えていることはありますか。「役に立つ」といっても、かなり広い意味で結構です。
【梶田】そもそも、ヒューマノイドの研究開発をやってきて、ヒューマノイドが当初の期待よりも実際に役に立たせることはなかなか難しい、ということが見えて来たときに、「でも、ヒューマノイドを使って、何かしら実際に産業に結びつかせるようなことをやらなくちゃいけない」という話が出て来たわけです。でも二本足で歩くだけで何か産業に結びつくところがないかと考えたときに「よし、エンターテイメントだ」となったわけです。それで中岡がやったような「会津磐梯山」なんかは、ただ踊るだけなんだけど圧倒的に注目を集めちゃうと。ということは「人間型ロボットが、人間っぽく動く」ということが、実際に産業やビジネスに繋がってくるはずだ、というのが「HRP-4C」の開発理由ですね。
――言ってみれば、存在そのものに価値があるということですね。
【梶田】はい。
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この会津磐梯山を踊るロボットというのがなかなかすごい。
YouTube HRP-2 dance aizu-bandaisan odori
アクションの大きさといい、動きの滑らかさといい、HRP-4Cに勝っているのではないか。
ところで日本の技術者がヒト型ロボットにこだわる理由は、彼らがロボット開発を目指した理由が鉄腕アトムを創りたかったらだという説がある。思わず納得してしまうような説得力がそこにはある。それくらい影響力が大きかったということだ。しかし、HRP-4C開発に携わった技術者には2000年代前半に大学院を出た人もいる。彼らは直接アトムの影響を受けてはいないだろう。全てのロボットが鉄腕アトムから始まった訳ではない。
なぜ日本の開発者はヒト型にこだわるのだろう?
確証はないが、アメリカ人のロボットのイメージにはどこか軍事目的なイメージがあるのではないか。戦闘マシーンとしてのロボット。それに対して日本人のロボット観にはやはりアトムに代表されるような人間の隣人或いは友達というような、ある種のパートナーのようなイメージがあるのではないだろうか。殺人目的の軍事ロボットのイメージはあまり日本人にはないような気がする。
いや、戦闘ロボットについては鉄人28号やマジンガーZや鋼鉄ジーグやコンバトラーVや装甲騎兵ボトムズや機動戦士ガンダムなど、そのイメージはありすぎるくらいに溢れているのだが、これらはいずれもアトムのような自分の意志を持たない機械である。或いはターミネーターのような自律性はない。自らの意志により人を殺すことはないのだ。それらは単なる機械であって、戦車のようなものだ。操縦するものなのだ。
そのような意志を持たない日本の戦闘ロボットに対して、自立性を持ち殺人の意志を持つロボット。それがターミネーターの衝撃ではなかったか。
日本のマンガやアニメに描かれるロボットはどれもみなどこか人間くさい。その起源である手塚治虫はアトムを差別された人間の比喩として描いた。例えば奴隷のような、人間同士の間での差別を批判する比喩としてアトムという表現を使った。アトムが人間くさいのは、手塚が描きたかったテーマが人間だったから。
日本のマンガやアニメで描かれたロボットは、ガンダムなどの意志を持たない二足歩行兵器を除けば、鉄腕アトム、 ドラえもん、キカイダー、アラレちゃん、超人あ~る、宇宙海賊コブラにでてくるレディなどどれもこれも人間よりも人間くさく、人間のともだちだ。人間に敵対するものではない。
そして更に鉄腕アトムの「地上最大のロボット」という話を浦澤直樹がリメイクしたマンガ、「PLUTO」ではより一層人間くさいロボットが描かれている。かなりリアルに。ロボットが人間に似てくると、ロボットに人権を認めるかどうかというやっかいな問題がでてくる。とても高性能なロボットと人間との境界線はどこにあるのか。両者の中間的な存在としての身体の一部分を機械に置き換えたサイボーグの場合はどうなるのか。明確な区別ができるのだろうか。
また、士郎正宗が描く攻殻機動隊というマンガでは、極めて高性能なロボットと機械人間としてのサイボーグが登場し、人間とロボットの境界線を突き詰めていく。機械と生命体との違いをゴーストの有無として区別する。ゴーストとは魂。機械に魂はないとする。一応、そうなのだが、ストーリーの最後には機械である人工知能とゴーストを持つ主人公草薙素子とが融合し、機械と生命との境界がさらにあいまいになる新時代のはじまりを告げる。ゴーストとは、魂とは何なのか、その疑問だけが突きつけられるが答えはない。
つまり、機械と生命との間の差をどこまでも近づけようというバイアスがあるように感じるのだ。それに対して海外のSFにでてくるロボットは、明確に機械であり、疑いようもない境界線がはっきりと引かれている。言い換えると、ロボットはどこまでも道具なのだ。
アイザック・アシモフは「鋼鉄都市」というSF小説の中で、ロボットと人間が共存する社会を描いた。そこではロボットと人間の友情もあり、ロボットの主体性を認めるような社会であったと記憶する。アシモフはロボットを隣人とする人であった。そしてまたアメリカでありながら機械と生命の間の微妙な境界線を深く追求したSF作家がフィリップ・K・ディック。その独特の世界観はしかし、限りなく人間に近い機械を描くというよりはむしろ、人間の方がもしかしたら機械のようなものではないのか?そんな風に描かれているように思う。人間に主体性なんて本当にあるのか。ロボットが我々に似ているのではなく、むしろ我々の方がロボットに似ているのではないのか。
人に似たロボットというテーマは、人とロボットとの違いは何か?という疑問を引き寄せる。それは主体性という哲学的なテーマにつながっていく。
さて、アシモフやディック以外のケースはどうだろう。海外のその他のSFの場合はどうか。向こうのマンガのことはしらないので、映画の中に登場したロボットを見てみると、 古くは「メトロポリス」という映画の中でC3POのような女性ロボットが登場する。「禁断の惑星」という映画にはロビーという、宇宙戦艦ヤマトのアナライザーにちょっと似てるロボットがでてくる。ウエストワールドという映画にはテーマパークのロボットの暴走が(この3本は私は観ていないけれど)。
そして時代は下って「スターウォーズ」。C3POにR2D2。そして戦闘ロボットのドロイドたち。彼らはいずれも人間っぽさを少し持ちつつもその外観はメカメカしい。「ブレードランナー」、「ショートサーキット」、「ターミネーター」、「エイリアン」、「ロボコップ」、「アイ・ロボット」、「トランスフォーマー」、「ウォーリー」、「サロゲート」。これらの映画にでてくるロボットはいずれもメカメカしい。どこまでも機械っぽいのだ。「ブレードランナー」と「エイリアン」を除いて。この2本にでてくるロボットは人間と区別がつかない。
「ブレードランナー」のロボットというかレプリカントは人間の敵である。というよりか奴隷としての隷属から反逆したレジスタント。これに対して「エイリアン」にでてくるロボットは、はるかに人間社会に溶け込んでいる。言われなければロボットだとわからないほど人間そっくりで、そして人間のように暮らしている。そのあり方は、アメリカ映画のロボットの中では最もアトムのありように近いかもしれない。
しかしこの2本以外の映画の中のロボット達はどこまでもメカメカしく、機械チックである。人間社会に溶け込むことを目的としたターミネーターですら。どれもこれも人間のトモダチとしては描かれていない。
海外のSFの中ではロボットは人間の職を奪うものとして描かれることも多いのではないか。産業革命の時のラッダイト運動につながるようなテクノロジーへの嫌悪感。コンピュータの反逆というストーリーはSFには多いが、人間の仕事を奪うものとしてのイメージとともに、奴隷制度というものを実際にやっていた過去というトラウマが欧米人にはあるのではないだろうか。
同和問題というのは抱えながらも、日本人には人種差別についての意識は薄いのではないか。
日本においてはロボットは機械というよりもむしろ、ロボットはトモダチ。
でもね。日本におけるロボットのイメージで忘れちゃいけないのは、萌え系の存在。いわゆるメイドロボット。思い入れがかなり強く入ってくる。
その先には更にセックスマシーンとしてのロボット、セクサロイドの話が避けられない。これは洋の東西を問わず。人間に似ている女性型ロボットにはどうしてもセックスの匂いが漂う。なぜなら、もともとロボットに性別などあるはずもないのに、なぜかわざわざ女性の形を持っているからだ。それはなぜ?海外ではロボットをセックスの対象とみることは、かなり反社会的で変態的な嗜好とみなされるのではないだろうか。なんとなくそんな気がする。それはロボットにもゴーストを認めるか否かの違いに基づいているのではないだろうか。
しかしながらこの問題がさらに妖しくなっていくのは、機械にゴーストを認め、その人格、あるいは主体性を認めながら、その一方でマシーンとして扱うことの間の矛盾である。性の道具としてゴーストを持つものを扱うことに対する非道徳性。それゆえに、このテーマについては誰もが興味を持ちながら、公けには語りたくないものではないか。仮にゴーストを認めないのであれば、それは人形を抱くのと同じ事。そう割り切ってしまえばそれはそれでいいのだが。それはまたそれでちょっといやな感じがするのでは?
もともとロボットに性はないが、人間がそれを与えるのだ。一体、それはなぜか?ということだ。
ところで、さらに話は変わるのだが、ロボットが人間に似てくると、逆に嫌悪感をまねくようになるという「不気味の谷」。それに関連する動画を3つ紹介してみよう。不気味の谷がどんなものかわかると思う。
PopSciの「不気味の谷ツアー」動画:日本の技術も多数登場
YouTube 遠隔操作型「ACTROID-F(アクロイドーエフ)」を開発
YouTube Japanese Robot With Touch Motion (Part 1)
そしてこれは違う意味で不気味な映像。ロボットよりむしろ人間の方がこわい。
YouTube Unveiled Life-like Female Robot that can FEEL!!!
何考えてんだか・・・
<追記>
最後に、前回、前々回のブログを引用してくれた方たちへのリンクを。
牛はロボットどんな風に見ているのだろう 松本淳さん
プライア・アートと聞いて、何を思う。 tsujirincofさん
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