ネットの匿名論について、松本さんのブログがとてもわかりやすく説得力があったのでリブログします。
実名匿名ハンドルネーム ~寝たふりモードでネタ拾い by 松本淳
なぜ日本では匿名主義が喜ばれるのか。思い返してみれば、パソコン通信が起源ではないかと聞いたことがあります。
via kataoka.bloggers-network283.com
これが本当かどうかは知りませんが、もしそうだとしたら、一世代前の習慣が現在も受け継がれているわけで、文化というものの堅牢さを思い知らされます。ただ、変わるべき実利的理由があるときには、文化は案外かんたんに変わるんですよね。堅牢でありながら柔軟でもあるのが文化の性質です。そして、かんたんに変わらない文化は、実は実用的にはどうでもいい部分で花開くことが多いんですよ。
実用的には、実名でもハンドルネームでも、ほとんど変わりはないんですよね。名前は、実用的には個体識別記号です。アイデンティティがそれで識別できればいいわけです。そして、初対面の人が「私は○○です」と名乗り、以後もその名前で通用するのであれば、それが実名であるか仮名であるかハンドルネームであるかペンネームであるか源氏名であるか愛称であるか法名であるか戒名であるかなんてのは、コミュニケーションの上でまったくどうでもいいことです。どうでもいいことだから、放置されてきたんでしょう。
ただし、実名に対置するのが実名以外の別の名前ではなく、名前を隠した匿名である場合、全く別種の「実名か匿名か」問題が発生します。こちらの方は度々浮上します。そして、Web上で完全な匿名性が不可能なことは数多くの「晒し」で実証されています。その一方で、一時的な匿名が可能であり、それが広く受け入れられているのは、たとえば某巨大掲示板の投稿者名や、増田の存在などに見て取ることができます。これらは「お約束としての匿名」であり、その場のルールを破らない限りは正体を晒されることはありません。いうなれば仮面舞踏会(マスカレード)のようなものです。あえて実名を捨てた世界で、非日常のコミュニケーションを行いましょうということです。
ということで、実名に関してはきれいに整理できるような気がするのですが、実はここにはもっと根の深い問題があるような気がします。それは、名前というものが本来もつ匿名性です。
私自身がいい例です。私は、たまたまネット時代以前の1980年代にに翻訳者として名前が印刷されていたという関係から、Web上での活動にあたって、そのまま「松本淳」という名前を使ってきました。ところが、この「松本淳」という名前で本を出していた著者が、私以前に少なくとも御二方は存在したのですね(こちらとこちら参照)。そして、1990年代半ばまでに、少なくとも2人の「松本淳」氏が著書を出しました。当時の書籍目録には、同じ「松本淳」名義で5人以上の著者の作品が掲載されていたわけです。そして、これが2000年代のWeb時代になるとさらに「松本淳」の名前が溢れかえります。高名なアニメ監督からミュージシャン、スポーツ選手、大学教授、ジャーナリストなど、「著名人」としてよい人々だけでも軽く10人は超えるでしょう。そして、弁護士や税理士、会社社長など積極的に名前を出していく立場の人々がさらに多数存在し、そして特に実名を出す必要はないけれどそれでもWeb上に実名を公開している「松本淳」さんが無数に存在します。正直、子どもの頃はここまでありふれた名前だと思いませんでした。そして、似たような名前まで含めれば、石を投げれば当たると言っても過言ではないほどそこらに転がっているのがこの名前なのです。
その私が、「松本淳」ですと言って、何か発言します。これってほとんど、「名無しさん」レベルの個体識別機能しかありません。「どの名無しさんですか?」っていう感じですね。
これは特殊なケースです。例えば私の兄は、同じ「松本」姓ですが、名前まで入れて検索すると本人以外は出てきません。同姓同名がいないわけはないでしょうけれど、さまざまな属性情報まで加えたら個人の特定に困ることはありません。私の場合、私の本業の翻訳をやっている私以外の「松本淳」さん、私の趣味であるギターを私以上に上手に弾きこなす「松本淳」さん、私と同じ大阪出身である「松本淳」さんなど、属性情報まで加えても私との境界線が判然としない同姓同名諸氏が実在します。けれど、一般には、そこまで極端なことはありません。こと著名人に関しては、だいたいはその名前で本人かどうかの判別がつきます。
けれど、著名人なんてごくひとにぎり、わずかな存在です。ほとんどの人は、いわゆる無名人です。読んで字のごとく、名前がないのです。名前がないわけはありません。その名前が、ほかの人にとってほとんど意味を持たないのですね。いえ、その人の属する社会では、重要な意味をもちます。家族や友人にとってはかけがえのない名前です。けれど、それが広大なWebの空間に出たときに、記号の組み合わせ以上の意味をもたないのです。
これが、名前のもつ匿名性です。実名を名乗っても、99パーセントは単なる記号としてスルーされるんですね。だったら、その場にふさわしい気の利いたペンネームを選ぼうかという気にもなります。ペンネームそのものが、メッセージの一部、主張の一部になるからです。ほとんどのハンドルネームは、実はそういう観点からつけられているのではないでしょうか。「実名だとまずい」という消極的な理由ではなく、「もっと自分を伝えたい」という積極的な理由から選ばれているのがWeb上の名前ではないかと、そんなふうに思います。
そして、スルーされない1%未満の中に、個人を特定して十年ぶりに連絡をくれる旧友とか、個人情報を狙って詐欺を働こうとする悪漢がいるのでしょう。それはそれで別次元の利益やリスクです。そういった利益をリスクと天秤にかける必要を、多くの人は感じません。それ以外の部分で十分にWebは利用価値があるのですから。
だから、ほとんどの人にとって、実名かハンドルネームか、実名か匿名かというのはどうでもいい問題なんですね。だからこそ一世代前の匿名文化はどこまでも続いていくのではないでしょうか。
via mazmot.bloggers-network283.com
固体識別ができれば実名でもハンドルネームでも関係ない。この意見には同意します。アイデンティティを隠した匿名での発言は某巨大掲示板などの特殊な場に限定された非日常的コミュニケーションだというのもユニークな視点だと思いました。そして実名にもまた個人特定できない匿名性があるという指摘にも目から鱗でしたね。ブログというサイトであれば、その場で特定が可能なのだろうし、Twitterではアイコンがアイデンティティのひとつとして機能しているのだと思う。あのアイコンは以外に大事な記号なんだと気づかされましたね。視覚的な印というものは判りやすいし。いっそのこと、日本でもネットではミドルネームを定着させちゃえばどうでしょうか。鍛冶・“フューチャーテラー”・哲也とか、鍛冶・“ホラフキー”・哲也とか。(笑)
2年前の記事ですが、やはり日本においてはネットでは匿名擁護派が多いようです。
ネット上は匿名?実名? 勝間和代氏vsひろゆき氏の“議論”より
ネットで実名をだすのはリスキーだという考え方は、某掲示板の影響が大きいのではないかと個人的には思います。ネット普及の途中の一時期であのサイトの影響力はかなりあったのではないか、と。或いはそれはネットのダークサイドとしてマスコミに大きく取り上げられたためかもしれない。
実名をだすことのリスクとは具体的にはどんなものか?それはネットの中での行動がリアルな人間関係に影響するということだ。最悪の場合、炎上などの問題が生じたときにそれが会社に知れて解雇されることも可能性としてはある。そこまでいかなくても人間関係がギクシャクする原因となることはありえるだろう。
ネットでの発言とリアルとがつながるということだ。逆に、実名を隠していれば仮に炎上のようなことが起こっても、それはリアルとは切り離された世界の出来事として片づけられる。ネット上ではリアルとは別な人格を演じることができるということでもある。問題が起こればその人格を放棄し廃止することも可能だ。
実名論者の問題意識は、このリアルとは切り離された別人格としての振る舞いが時に傍若無人であり非礼で誹謗中傷に走りやすい点を問題にしているのだと思う。私の知ってるところではその典型が勝間和代さんかな。今でも相変わらず怒っていらっしゃる。(笑)
新刊「まじめの罠」で、以前から指摘をしていたamazonのレビュー問題について。関係者の方々の連絡をお待ちしています。~勝間和代公式ブログ
逆に匿名論者には、ネットは実名じゃなきゃだめだって意見は有名人とかの強者の意見だとするものが多いような気がする。確かに実態としては実名で書いてる人は名前の通った人が多いし、後はビジネスにつながる社長のブログとかが多いと思う。でも私はそこに強者も弱者もないと思うけどな。ネットはフラットだ。アクセスの多い少ないがあるだけだ。でも匿名論者は、実名論者を否定はしてなくて、実名で書きたい人は書けばいいじゃん、という立場なのでその分だけ有利かな。
私の立ち位置は、実名またはハンドルネームでも匿名でもどっちでもいいじゃん。てとこ。現実的には匿名での発言を禁止することって難しいと思うし。それを法律で強制的に禁止するのはあまり得策ではないような気がする。いくらでも抜け道ができそうだし。スプレーで落書きするような行為を完全に防止することなんてできないと思うし。
どちらにしても今は過渡期だと思うのです。実名のリスクというものは、実際よりも過大に受け取られている(大げさに怖がってるだけ)と思うし、デジタルネイティブの世代はまた違う肌感覚を持っていると思うし。リアルと完全に切り離してネットで行動を続けることは段々難しくなっていくだろうと思うし。
こういう時代の中でプライバシーという名のもとでどんな情報を秘密なものとして隠しておかなければいけないのか、それは今後更に明確にしていかなければいけない問題だと考えます。
ただ、自分は匿名の陰に隠れて安全な位置から他人を攻撃するような行為にはあまり賛同できないな。それは普通の感覚ではないかと思うがどうだろう。例えば街中で、覆面をして顔を隠してビラを配ってる人がいたとしたらどうだろう?それはあまり情報源として信頼できないと感じるのでは?
それがタイガーマスクの覆面だったら、それはそれでひとつのメッセージになるかもだけどね。
関連記事
プライバシーは本当に保護されるべきなのか?
どこまでネイキッドになりたい?
表の顔と裏の顔
「肩書のない実名に意味はない」論
■追記 2011年10月23日16:25
このネット上の人格とリアルな人格との乖離については、関連記事であげた「プライバシーは本当に保護されるべきなのか?」という投稿へのセルフコメントでちょっと掘り下げているので再掲してみます。またちょっと違った視点なので。
「ネット上で公開している情報と、リアルな世界に生きている本人とをリンクすると問題になるというのも、考えてみるとヘンな話だ。」
つまりは匿名にせよ、実名にせよ、ネット上で語る際の人格というものはリアルとは別につくられる。
ネット上の人格は通常、映像も、しゃべり方の癖も、体臭も、顔の表情もともなわない、限られた情報により構成される。人格イメージにおけるコトバの占める割合が大きい。
つまりはネット上の人格は、そもそもリアルと同じではない。
仮想性あるいは虚構性の強いネット上の人格とリアルの人格を結びつけることを強制するべきかどうか。それを切り離しておきたいという権利を認めるべきかどうか。
問題の立て方としてはこっちの方が適切な気がします。
そしてこのネット上の人格。本文では、有名人のプライバシーを例にあげましたが、むしろ、ペンネームを使う作家の方が例としては適切かもしれない。
ペンネームで書く人はたくさんいるだろう。ペンネームは有名でも、実名は知られていない人はたくさんいるだろう。
その人たちは、言わば言論世界における人格とリアル世界における人格を切り離して使い分けている。
いわゆる作品と作者は別だという考え方だ。
作者がその私生活においてどんなにダメ人間、くず人間であっても、その作品が美しければ、その作品の価値を減じることはない。
そういう考え方はある。たしかに。
私はその考え方には賛成だ。小説家であれ、漫画家であれ、映画監督であれ。或いは俳優、シンガーであれ。そういう表現者に、私生活において聖人君子であることは求めない。
確かにそうだが。一方で言行不一致という考えもある。言うことは立派だがやってることは全然違うじゃん、という人は信じられない。そんなケースだ。言行不一致を許せないケース。
例えば、宗教家。思想家。評論家。教育者。政治家。医者。弁護士。コンサルタント?いわゆる「先生」と呼ばれる職業の人たちか。警察の人なんかはどうだろう?経営者は?
いわゆる指導的立場にある人。偉そうに説教たれる人たちは、言行不一致が許せない気がする。人としての真摯さ、誠実さを求められる立場というものはあるような気がする。
言行不一致が許される人と、許されない人。その違いは何なのだろう?
それは職業なのか?それともその言葉の、その言説の内容なのか?
そして、仮に言行不一致が許されるなら、その人は仮想人格とリアルな人格とは切り離しておくこと、すなわちプライバシーの保護が許されるということか。
それとも更に進んで、仮想人格とリアルな人格とが結び付けられた上で、そこに違いがあることを、受け手によって許容されるということか。それは俳優がインタビューを受けて、役柄とは違う自分の考え方を述べるようなものか。その場合の人格の違いは、公開された上で許容されている。そんなものか。
俳優が、俳優という立場でインタビューを受けて語る言葉は、しかし俳優という役割を演じているのであって、その人の「素」の言葉とは限らないというややこしい問題もあるが。当然、その俳優の過去の出演作品とか、ファンの期待とか、そういう俳優としてのブランドイメージってもんもあるわけだから。
そういうのひっくるめて情報公開/非公開は自分で決めてるわけだからそれはいいのか。今回の問題は本人が非公開にしてる情報はあくまで非公開であることを前提にしているのだから。本人が公開している仮想人格をリアルの人格と結びつけることの是非を問題にしているのだから。
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