先日、ある機会があって、お宝鑑定団の岩崎紘昌さんのセミナーを聴講しました。
鑑定団での知名度により講演もいろいろやっているそうですが、本業は骨董品屋だとのこと。骨董品屋はモノを仕入れてそれを売る。その時に値をつける。決まった定価はない。全てが時価。オープンプライスな世界。
骨董品の値段。古いものが高いという訳ではないそうです。その骨董品を欲しいと思う人が少なければ高い値はつけられない。どんなに古くても買い手がつかないモノには値がつかない。逆に、それを欲しがる人が多ければ多いほど高い値がつく。
商売においてはあたり前のことです。
それが資本主義のシステムだという。どんなに古いモノでも、それを欲しいと思う人がいないものには高い値はつかない。商売の基本です。需要と供給が価格を決める。
古くても、それを欲しいと思う人がいないならばそれは単なるガラクタ。それは市場の原理。
「欲しい」と思うのは人という存在の思い込み。或いは思い入れ。市場価格を決めるのは、人の思い。もしかするとそれは幻影。「思い」が決める価格というものは、客観的なものではない。外在的なものではない。
岩崎氏はこう言います。骨董品を買うのなら、すぐに買ってはいけない。まず、10軒、骨董品屋を回りなさい。そうすれば、絶対欲しいと思うようなものが見つかるはず。それだけの思い入れが感じられないものを買ってはいけない。そう語っていました。どんなものを欲しいと思うか。
それを判断するには、多くのモノをまずは見てまわること。そうすればおのずとわかる。自分の価値観が見えてくる。のだそうです。
視点を変えてみる。それを創った人はどんな人か。掛け軸。陶器。絵。書。それらを創った人は、普通の人生の道を外れた人。クリエーター。創作者。芸術家とは、普通の人生の道を踏み外した人たち。食えるかどうかも判らずに、得体の知れぬ情熱に突き動かされ創作の道に突き進んだ人たち。
その魂を尊敬せよ。敬意を払え。
けれども、それに心を動かされないならば、それにカネをだすな。
骨董品屋がそれを言う。
例えそれが出所があやしくても売れれば商売。そんなスタンスをとらない。感じるなら買え。そうでなければ買うな。決めるのは自分だ。
需要と供給のバランスによって決まるのが市場価格。骨董品屋はそれを見極めるのが商売。
だがしかし、市場価格とは異なる価値もある。それは所有者の思い入れ。思い込み。それは市場価格とは全く別の原理。
個人として大切にしているモノ。それは価格ではない。プライスレス。
誰もほしいと思う人がいないようなガラクタでも、本人にとっては大切なモノっていうのがある。それが周りの目から見るとガラクタであっても。本人にとってはかけがえのないモノっていうものもある。
その価値は需要の多さでは決まらない。
欲しいと思う人が誰ひとりとしていなくても、本人にとってはどても大切なモノだってある。
自分にとって大切だと思えるモノを大切にしよう。
それが、自分にとっての価値だから。値段は関係ない。
ブラジルの移民の老人が大切にしていたボロボロの掛け軸。欲しがる人がいないそのガラクタの値段は二束三文。ほとんど値がないに等しい。でもその本人が、7歳の時に日本からブラジルに渡る際に親から託された代物。その価値はプライスレス。市場では値がつかなくても、それが本人にとってどれ程大切なものであることか。
モノの価値とは、ことほど左様に主観的なもの。
その価値は本人にしかわからない。かけがえのないもの。そんな価値だってある。モノは因縁を持っている。ストーリーといってもいい。コノテーションといっても。
市場はそれを評価できない。
それは主観と客観の不一致ということを意味するのかもしれない。
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