前回の投稿「モノの価値」のページにzenbackでついていたリンクを読んでみた。
2ちゃんのまとめだがおもしろかった。哲学ってやつは、いろいろと面倒くさいことを考えることだと思うし。物理的に生きるためには必要のないことをあれこれ考えずにはいられないってことかもしれないし。いずれにしても、「疑う」ということ自体が哲学の第一歩であるのだろう。
学問的な理屈は抜きにして、このような素朴な疑問というか、議論が自然発生するところがネットのおもしろいところ。或いは哲学的な「問い」というものは身近なところに転がっているという点で、ある意味では哲学というものの必要性を実証しているのかもしれない。人間というものは面倒な屁理屈というものを必要としているのだ。
さて、リンク先の内容についてだが、トピ主は、世間一般にあたり前のように広がっているモノの価値ってもんが、本当に価値あるものなのか、疑問を持っている。疑問というよりむしろ不信かな。信じられない。本当は必要ないものじゃないかと思っているのだ。トピ主はそれを錯覚と呼ぶ。世間一般の信仰に共感できないということ。
私の理解で言うと、彼の疑問は正しい。価値というものに客観的根拠はないからだ。主観的なものであるから、共感できないというケースは当然ありえる。それは共感が成り立たないということと同じではないが。
価値とは無根拠なものであり、共感或いは信仰によって支えられている。ただの紙切れであるお札に価値があるのは皆がそれを認めているからだ。個人としてそれを否定することは可能だ。お札をブランドものの服に置き換えてみればすぐわかることだ。思い込みが価値をつくっている。欲しい人の数がその価値の価格を支えている。
価値とは恣意的なものだ。幻想と置き換えてもいい。共同幻想。共感がそれを支えている。それゆえにそこに正解はない。価値というものは揺れ動いている。絶対性はない。
社会も同様だし、人間そのものだってそうだ。言語が恣意的であるからだ。自我も同じ。相対的なものなのだ。関係性の中でしか存在しえない。
社会というものは物理的存在ではない。国会議事堂とか警察の建物とか物理的な存在としてはそんなものしかなくて、法律や政令というものも物理的なものではない。人間同士の関係でありルールだ。人間そのものも、物理的には食って出すだけの生命体であり化学反応の塊だ。それがあれこれ考えたりもがいたりしているのは、自分自身との関係や他人との関係性を位置づけ安定させようという営みだ。自我とは言語体系であり、快不快の価値観の体系である。好き嫌いのルールブックの総体、集積だ。社会も人間もその本質は関係性なのだ。
そしてその関係性というものが、オープンなネットを通じてその範囲がものすごく大きく広がっている。リアルな世界での関係性とは比較にならないポテンシャルを持っている。関係性がネットの中に広がることによって、関係性の構築に検索という要素が新たに加わった。検索が関係性のあり方を変えた。その関係性の拡大が、人間という存在のあり方自体の変質を迫るのではないかと私は考えている。
「ニュータイプ」という言葉に、私は特別な意味を込めている。可能性としての新しい存在のあり方を、私は知りたいと願っている。
人間は変わるのか?
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