企業などの組織における意志決定の方法には、基本的に中央集権型と分散型の二通りある。
意志決定とはすなわち権限に等しい。意志決定とは、何をやるか、何をやらないか。ヒト、モノ、カネといったリソースの使い方を決めることだからだ。権限とは例えばカネをいくら出すか判断するということだ。
小さな組織では必然的に中央集権的な意志決定方法が主流である。ベンチャー企業や中小企業に多いパターンだ。社長が何でも決める。その方が組織としての判断がぶれずに統一化できるし、判断が速い。
しかし組織が大きくなると、何でも社長が決めるという訳にはいかなくなる。そこで組織の長に権限を委譲することになる。判断を任せるということだ。いちいち社長の判断をあおがなくても現場で判断ができるようにする。大きな組織において意志決定のスピードをあげるためだ。規模が大きくなって生じる、様々なレアケースへの対応やイレギュラーな処理への対応を速めるためでもある。
権限の委譲には当然ながら責任の委譲もともなう。カネやヒトを任せるということは、それに見合った成果をあげる責任も任せるということ。
組織のトップにしてみれば、権限を委譲するということにはリスクがともなう。委譲する相手を信用できなければ権限は任せられない。相手に任せる覚悟がトップには必要だ。組織の長に責任を任せたといっても、何かあれば最終的な責任はトップ自身がとらねばならないからだ。大きな組織のトップにはそのようなリスクはつきものだ。トップというものはそうして権限委譲した組織の単位ごとのマネジメントが必須となる。
何をどこまで現場に任せるのか、何を任せないのかは、しかし、しばしば運用に頼ることになる。権限委譲の原則は責任規定により定められていても、実際の運用においてはトップがどんな報告をどれくらいの細かさで求めるかによって、そのトップのカラーなり性格なりが組織の意志決定に反映されるのだ。
そして、そのような権限委譲が小さければ小さい程、トップには大きな権限が残ることになる。「オレが決めなければ何も始められない」という訳だ。部下に勝手は許さないという訳だ。トップが陥りやすい罠である。
そしてそういうトップのカラーが中央集権型の意志決定システムをつくる。上の判断をあおがなければ現場だけでは何もできない硬直的で官僚的な組織ができあがる。トップに大きな権力が集中する。中東や隣の半島の独裁政権とはおそらくそのようなものではないか。図体がでかくてスピードが遅い恐竜のような組織だ。
反対にトップが思い切った権限委譲をすれば、現場は判断しやすくなり、動きが速くなる。現場の行動の自由度があがる。うまくいけば、現場の創意工夫の余地が生まれる。部下にしても責任を任された方がやりがいがあるというものだ。一般論だが。組織としての環境適応力が高まることになる。
さて、今回のこの大きな震災で、この国の総理大臣は意志決定の権限を自分の手に集めているというような話をネットでみかけるが事実はどうなのだろう。しかるべき組織の長にしかるべき権限を委譲しているのだろうか。
そしてまた、地震と原発への対策について様々な本部や会議を乱立させているとも聞くが。同じような対策会議をたくさんつくっても、どこが何を決めるのか役割が不明になり混乱するだけではないのか。
原発事故の関連について、「原子力災害対策本部」、「経済被害対応本部」、「原子力損害賠償紛争審査会」、「原子力被災者生活支援チーム」などのプロジェクトがつくられているという。この手の検討プロジェクトというものは通常、本部の下に課題ごとに分科会のような組織の構成にするものではないか。その中で優先順位づけを行う。もし、それらの組織が並列に設置されていてはその組織間の優先順位づけはトップが自ら行うことになる。その意志決定がスピーディにできるのか。権限委譲が適切になされているかどうかの疑問がここに湧いてくる。国のトップが対応するべき緊急課題は原発だけではないはずだからだ。国家間の対応、震災復興、霞ヶ関の省庁間の統制、被災者への経済支援、復興計画の財源手当て、経済立て直しの道筋、首都圏電力の不足への国としての対応、国がやらねばならないことは山積みだ。基本方針を決めたら権限委譲しなければ対応できないことは明白だ。誰に任せるのか。トップには信頼できる優秀なスタッフが必要なのだ。
いないのか?
ところで、今回の震災で意外だったのは、自衛隊という組織は、指揮命令系統ならびにヒエラルキーのはっきりした硬直的意志決定しかできないという先入観と違って、意外と現場判断で柔軟適確に動けるのではないかということだ。組織ごとの責任と権限が明確にされているからであろうか。確かに戦争は机上の計画通りには進まない。(参照→リブログ:「戦争の世紀」を生きた米元国防長官マクナマラ氏が語る人生の教訓 ~映画「フォッグ・オブ・ウォー」を観て~*) 様々な局面が現場で動き、変化し続けている。現場の判断を重視しなければ行動そのものが不可能になるのかもしれない。現場の判断で何ができて、何ができないかが明確だからこそ、現場ですばやい判断に基づく行動がとれる。
そう、『事件は会議室で起きている』わけはないのだ。
いつだって、事件は現場で起きている。
* ”人はだれでも過ちを犯す。正直な司令官なら過ちを認める。「戦争の霧」という素晴らしい言葉がある。戦争は複雑ですべての変化を読むことはできないという意味だ。我々の判断力や理解力には限界があり、不必要な死者を出す。私は戦争を無くせると信じるほど単純ではない。人間の本質は簡単には変わらない。人間には理性があるが、理性には限界がある。”
本文で述べている地震と原発に関する対策会議のリストはこれ↓。
http://www.zakzak.co.jp/society/politics/images/20110419/plt1104191633001-p2.jpg
確かにこれはやりすぎにみえる。みるからに馬鹿馬鹿しくないか?各省庁のメンバーが複数会議に重複出席していて、会議ばかりで時間をとられているとも聞く。
同じような会議でもメンバーが少し違えば情報共有のたびに同じ話を聴かされるメンバーもでる。
分割して並行処理できるなら速度がでるが、同じメンバーがあちこちの会議に出ているんではそれこそ会議ばかりで行動は遅れる。そもそも会議の時間調整も面倒なことになるはずだ。
組織またぎのタスクフォースとして検討メンバーを集めるのはいいとして、責任あるメンバーを集めていろんな問題を集中討議すべきだろう。責任者同士の間で各省庁の役割分担を一度の会議で決め、そっから先は実行部隊で動かすべきだ。
要するには方針を決めたら後は、実行部隊に任せなきゃならんのだ。権限を任せるのだ。権限を下におとさなければものごとは先に進まない。会議ばかりやっているなど言語道断だ。
Zakzak 「菅」という人災が東北つぶす!責任転嫁の“乱立会議”機能せず
http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20110415/plt1104151602004-n1.htm
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2011/04/24 10:41