なんだか最近、私は気分が悪いのです。震災と原発から以降。
なんだか日本中が、批評家になったみたいで。とっても気分が悪い。どいつもこいつも。批判ばかりで。いい加減にしろよと思うのです。なんかヤなんだこの雰囲気。
みんな、なんか、政府に期待しすぎ。お上に頼りすぎだと思う。みんな無責任だと思う。
近頃はなんだか、菅政権に対する批判がとても多くて、それに対して国民的合意が形成されつつあるみたいで、なんかそれがヤダ。
確かに日本のリーダーとしての菅総理にはたくさんの疑問符がつくのは確かだけれど。
なんかそれが、感情論になってるのがとってもヤダ。
そもそもこの国には国頼み、お上頼りが多すぎるのだ。
景気が悪くなれば、政府が悪い。政府がなんとかするべきだとか。もともとそんな空気がある。景気のよしあしを政府のせいにするのはおかしい。関係ねーだろ!と思う。景気がいいわるいは、本来政治の問題ではないと私は思う。政治じゃなくて経済だろ。それを政治のせいにしちゃうのはヘンだと思う。
そしてそれは今回の震災についても同様だ。震災そのものは政府のせいでもなんでもない。それは自然災害だ。規模が大きかったけれど。想定外だったけれども、だ。
震災は菅総理のせいではない。民主党のせいでもない。
なんだか今、菅総理が悪いとか民主党政権が悪いとか、そんな声が多すぎる。
だったら、どこが悪いのか、具体的に指摘するべきだ。なんだか、何が悪いのか明確にしない批判が多すぎる気がする。ダメだダメだといっていても先へ進まない。総論で批判してもしかたがない。どこがどうダメなのか具体的に議論しなければ。だったらどうするべきなのか、具体的な議論をしなければ。
なんか、日本の国中でダメ出しばかりがはびこってる気がする。
どうすればいいのかを議論するべきだ。批判はいらない。議論をするべきだ。
野党でもあるまいし、批判ばかりしていないで、こうすればよいという対案を出すべきだ。何か、今は、国中が、菅だからダメだ、民主党だからダメだというような短絡思考に陥っているような気がする。誰もが野党のような政権批判に終始しているような気がする。
確かに菅はロクでもない。民主党もロクでもないと思う。だがしかし、それを野党のように批判してもしかたがないと思うのだ。
だったらどうすればいいのか、対案を示さなければ。菅政権がダメだというならば、誰を替わりにすえればいいのか。
なんだか、偉い人がなんとかしてくれる、という気分を感じるのだ。
民主主義のルールにのっとり、我々が民主党を選んだのだということを忘れていないか。
私は民主党を支持するつもりなんてこれっぽっちもないが、彼らを批判するならはっきりとその根拠を示すべきだと思う。どこがダメなのか。どうすればいいのか。
その辺をすっ飛ばして、民主党だからダメだ、菅だからダメだという意見が多すぎる。
もっと、具体論をしなければいけないと思う。
事態は深刻なのだから。
まるで野党のような、無責任な批判が多すぎる。
政治など信じない、アナーキストな私は、今回の震災によるこの国の右傾化を心配している。無駄な在庫、無駄な備蓄をよしとする保守主義の台頭を警戒している。
お上になんか、そもそも頼るべきではないのだ。
計画経済が好きではないならば。
その話をさらに続けると、「政治は何のためにあるのか」ということになりますが、結局、政治家が国民の代表であることを国民も政治家も忘れてしまった。そして、いつの間にか、政治がバラマキという名のサービス産業になってしまったということです。
サービス産業とは、利用者にとって気持ちがいいことをして、お金を取るという商売です。政治がサービスに徹した時、どうしても国民は、そのサービスばかりに目が行ってしまい、どうしても不満ばかりになってしまっています。
サービスは国民にとっての目くらましです。理想を言えば、もともと、政治家はこの国をどのようにしていきたいかというビジョンを立て、それがマニフェストになり、それに沿って税金を使っていく。ところが、そのビジョンがサービスばかりになってしまったところに、政治不信になってしまった部分があるのだと思います。
でも、「民度」という鏡に照らせば、政治家は選んだ国民以上になれない。国民がサービスを要求している限り、本当のビジョンは見えてこない。そして、天才的なカリスマ政治家が登場しない限り、集団的政治体制を続けていく限り、国民の不満はなくならない。
もっとも、そんなカリスマ政治家が登場すれば、かつての軍事国家である昔の日本が登場しかねないジレンマがあるのですが。
投稿情報: Account Deleted | 2011/04/20 17:13
鍛冶 哲也さん
自分も同じように、最近の政治批判の風潮には辟易したものを感じています。
日本が古来から、少なくとも卑弥呼の時代から2000年間そうであったように、私たち市民は何も考えずにリーダーに従うものでした。リーダーが信頼するに足らない人物であれば、「リーダーに従う」という枠組みを変えることはしないで、ただ新たなリーダーを求めることしかできなかったのですし、今でもそうです。
リーダーが誰であれ、私たちの考え方が変わらない限りは、いつまででも批判と首のすげ替えを繰り返すのだろう、と断言していいと思います。
私も政治に対する不信感は強く、政府ができることは民間にもできるし、民間にやらせるべきだと考えています。ただ、アナーキズムやリバタリアニズムと呼べるほど自分の主張がしっかりしているわけではないので、何々主義者という言い方はできませんが。
即時の内閣退陣を求める人の中には、首相を変えれば政治がよくなるという幻想を持っている人もいるのでしょう。幻想だから、具体的な案も方法論もない。ただ漠然と変化を望み、口を開けてそのときを待っているのだろうと思います。
待っていても、自分が望む世の中には変わらない。ならば自分の手の届く範囲だけでも、自分の力で変えられるところは変えていきたい。
それはお上に頼らなくてもできることだし、頼っていてはできないことだと思うのです。
投稿情報: たまご915 | 2011/04/20 22:19
mugendaiさん、コメントありがとうございます。
本当は私は、政治については言及したくないのです。よくわかんないし、あんまりわかりたくもないし。政治は好きじゃない。おっしゃるように無駄なバラマキとしか思えないし、富の再分配として有効に機能していると思えないし。政治家は利権=既得権益の代表としか思えない。
けど、衆愚政治という言葉は、ソクラテスとかプラトンとかアリストテレスとかの古代ギリシア時代からある言葉なんですよね。やれやれ。進歩のないことよ。
確かプラトンは、政治は徳のある哲人が政治を行うべきであると言ってたと思います。賢いヒトの専制が理想であると。
徳のある政治家って、誰????????
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2011/04/20 22:37
たまご915さん、コメントありがとうございます。
いただいたコメントには100%共感します。口を開けて待ってるヤツらが多すぎる。既得権益を守る壁が厚すぎる。変えることに対する抵抗が強すぎる。こんなに激しい変化が身近に起きているのに。
自分にできることをやる。その通りだと思います。強くそう思います。普段でもそうだと思うけれど、非常事態である今は、なおさらだと思う。そして、被災地では実際にそういう、できることは何でもやる!という思いが現場を動かしていることと思う。こんな非常時には、ルールなんてくそくらえ!という人が速く動けるのだと思う。自分もそういう人になりたい。
菅総理大臣にも全くいいところがないという訳ではないと思うのですよ。早い時期に、原発は大問題だ!と騒ぎ始めたのは正しい判断だったと思います。危機に際して、優先すべき決断、価値判断を行いそれを明確に示すことは、リーダーの重要な役割だと思う。そっから後は何もしてないに等しいと思うけれどもね。
リーダーには、信頼して任せることも必要だと思うのです。全部自分でやるわけにはいかないのだから。そして、こんな非常時には特に、現場が自分で判断してとにかく動くことが必要だと思う。その判断を信頼し、現場に任せることが非常時のリーダーの役割だと。それはつまり、現場に対して、「やれ!」ということ。必要なことは何でもやれ!ということ。手続きなんて気にするな!ということ。
やっぱり“彼”にはリーダーとしての資質が欠けている、と私も思います。政治家ではなく政治屋。しかし、じゃあ誰に変えようか?と言った時に代替案がないんだよなぁ。谷垣もなんだか、ねぇ。
私としては、小泉さんに、今一度、国のために今一度踏ん張って欲しいんだけどなー。本人はいやかもしれないけれど。
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2011/04/20 23:02
酔っ払った勢いで本文中で、「私はアナーキスト」とか言ってますけど、そんなに明確な主張があるわけではないです。政治も政治家もこれっぽっちも信用してねえ!といいたかっただけで。公共サービスの必要性を否定するつもりはないし、その恩恵は受けているわけで。治安維持にしろ、病院にしろ。本当の意味で無政府主義者というわけではありません。そんなもんが成立するはずもないと思う。ただし、小さな政府の方がいいとは思っている。大きな政府よりは。大きな政府を効率よく機能的に運用するノウハウが全然ないと思うから。利権というヤツが大キライなんです。
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2011/04/20 23:18
ちなみに、今回のこの記事を書くきっかけになったのはワック出版の「Will」という雑誌です。右寄りの雑誌です。「東北関東大震災 私はこう考えた」という特集のために買いました。
右とか左とか、自分と違う考えを持った人たちの意見も読んでおきたいと思ったのですね。自分のバランスを保つために。
ところが、読んであきれた。「菅直人はキライ!」、「菅はダメだ!」というそんな単純な論考ばかりだった。根拠がないじゃないか。好き嫌いだけで語ってても何も先に進まないじゃないか!と、そう思ったのでありました。西尾幹二とか、西部邁とか嵐山光三郎とか日下公人とかの知名人が、そんな低レベルな原稿を載せている。強い失望と憤りを感じました。
それが、この記事を書いた動機です。なんだか、批判のための批判じゃあしょうがない。そう思う。
もっと、実のある議論をするべきだろう。こんな大変な時には。
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2011/04/20 23:32