しあわせって何だっけ?
しあわせって何だっけ?ふたたび ←ひろゆきホリエモン勝間和代対談より
何の疑念もなくしあわせそうに笑う、かの国の若者の笑顔の話題に端を発した「しあわせ」について考えたふたつの投稿のコメント欄で、snafkin7さんと交わした議論を通じて得られた結論。
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「空気読めない」ことをダメなこととする今時の風潮は、しあわせと感じることから自分を遠ざけることにつながるのではないか。
マジで自分と向き合う。ガチで対立する。
このふたつを避けようとすることは、「自分」と「他人」に向き合うことを避け、逃げようとすることであって、そんな風に逃げていたんでは自分の気持ちに出会えない。自分のことがわからない。自分のことがわからずに周囲の「空気」にあわせているからしあわせを感じることができない。
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いったい、どうしてこのような「空気読まなきゃダメ」みたいなことになっちゃったのか?どうして「自分」や「他人」を批評し、対立することから逃げるようになってしまったのか?
本音を言わず、対立することを避け、リスクを回避することがどうしてこんなにあたり前になってしまったのか?どうしてリスクを取らなくなってしまったのか?
なぜなんだろう?
それはきっと、リスクを取るよりもそれを避けるほうが「賢い」と思う人が増えたから。リスキーな賭けにでるよりも、長いものに巻かれて、現状に甘んじた方がラクだと思うから。刃向かうよりも従った方がラクだから。「俺が俺が」と主張するよりも、「みんながそれでいいなら」と言うものわかりがいい人が増えたから。体制に逆らうよりも従う方が「賢い」と思う人が増えたから。勝ち馬に乗る、主流派に従う方が「賢い」ことだと思う人が増えたから。少数派になることを恐れる人が多くなったから。
「目先のことによく気が付き抜けめがない」小利口な人が増えている?
夢幻∞大のドリーミングメディア/mugendai
「コリコウな人々」より引用
<引用開始>
このようなタイプは、細かいことによく気がつき、大きな失敗はしない。だが、大局に立つことは苦手だ。ほどほどに知能が高く、常識を守り、保守的だ。常識を打ち破る人間に対して、抵抗したり、足を引っ張る。官僚的、組織的ともいえる。また、目の前しか見えないので、自分の今の地位や生活を守ろうとする。「バカ」なら、先に不安を感じないが、「コリコウ」ゆえに、あらゆる情報から不安の種を見つけ出してくる。今、日本人の大半はこのタイプだ。
<引用終了>
コリコウな人々は不安を抱えている。
あれあれ?芥川龍之介が、「将来に対するぼんやりした不安」と言ってたのは、こんなことの先取りなのか?ちょっと違うような気もするのだが、今回のsnafkin7さんとの議論の中で、この「ぼんやりした不安」という言葉が私の念頭に浮かんだことは事実。今の世の中、誰もが晩年の芥川龍之介の心境に共鳴しているとでもいうのか。
ちょっと違うような気がしつつも、芥川の言葉と共通性を感じたのは、晩年の芥川が世の中に対するチャレンジ精神を失い、無力感にとらわれて、自らが保守化したことについての危機感の裏返しとしての「ぼんやりした不安」という表現であったからだろうか。保守とは現状維持、現状肯定を指す言葉だ。社会に対する批判性を失ったことに対する裏返しとしての「ぼんやりした不安」。
ジョン・ケネス・ガルブレイスは1978年に「不確実性の時代」という本を出し、FRB(米連邦準備制度理事会)のバーナンキ議長は今年の7月に「経済は異例なほど不透明である」と発言して物議を醸しだした訳ですが、これって、多分、「将来は予測可能である」という前提に立っているような気がします。「予測可能であるべき将来」について、その予測できないがために不安を感じる。のではないか。
それは将来が予測可能であるという傲慢不遜ではないのか。明日のことが計算可能であるなんて、誰が言ったのだ?
Wikipedia デイヴィッド・ヒューム(2010.10.17) より引用
<引用開始>
一般に因果関係といわれる二つの出来事のつながりは、ある出来事と別の出来事とが繋がって起こることを人間が繰り返し体験的に理解する中で習慣によって、観察者の中に「因果」が成立しているだけのことであり、この必然性は心の中に存在しているだけの蓋然性でしかなく、過去の現実と未来の出来事の間に必然的な関係はありえず、あくまで人間の側で勝手に作ったものにすぎないのである。では「原因」と「結果」と言われるものを繋いでいるのは何か。それは、経験に基づいて未来を推測する、という心理的な習慣である。
<引用終了>
このように将来予測の無効性についての過激な考え方だってある。「因果関係」なんていうものはそもそも存在しないという、このヒュームの主張は極論であろうと私は思うが、しかし、それを誤りとして否定することは私にはできない。論理的に反駁することは私にはできなくて、「いくらなんでもそれは言いすぎだろう」と感覚的に反論するのみである。
「将来予測はできない」というヒュームに対しては、感覚的に反発を覚える私ではあるが、その一方で「将来は予測可能である」という楽観論に対しても一抹の違和感を覚える。科学的現象と社会的現象についての違いはそこにはあるかもしれない。
「将来は予測可能である」と無批判に前提することは正しくないのではないか。
私は「将来の予測は不可能である」と言いたい訳ではない。何もかもが「一寸先は闇」状態であると主張するつもりではない。だがしかし、何もかもが予測可能であるはずはないとは思う。「将来は(ある程度)予測可能である」と、制限条件をつけるべきであると考える。
だって実際、想定外なできごとなんていくらでも起こっているではないか。人間の将来予測能力には限界がある。予想外な出来事はいくらでもありえる。
そう思えば、将来に対する不安なんてものは、あたり前な感覚に過ぎない。あって当然。明日のことなどわからない。それは人間の能力の限界から。そんなのあたり前のことではないか。全知全能ではないのだから。
日照りや水害、疫病といった人知を超えた自然の脅威と日々、向き合っていた昔の人々にとっては、それはむしろあたり前なことであったのではないか。「死」が常に身近にあって、特別なことではなかった昔には、天候の制御ができないのと同じように、「今日と同じような明日」があるという確信よりも、「明日は明日の風が吹く」というような「運命には逆らえない」という諦めと、「明日は何があるかわからない」という緊張感があったのではないだろうか。予想外な出来事は日常茶飯事なことではなかったか。飢餓や病と隣り合わせな日常。
だがしかし、現代人にとっても、その状況は変わらないのではないのか。天候は予想できるようにはなったけれど、それを変えることはできない。病の診断と治療の精度は飛躍的に向上したことは確かだが、病気による死がなくなった訳ではない。「未来が不確定である」という事実は昔も今も変わらない。
「今日と同じ明日がある」という確信に根拠はないのだ。
その意味では、「明日は何があるかわからない」という不安とともに今日を生きることは、あたり前な、普通のことだ。「明日への不安」なんて誰だってフツーに持っている。そんなのはあたり前なことで、そんなことにいちいち悩んでいたら、「今を生きる」ということさえおぼつかない。
「明日は何があるかわからない」という不確定性。逆に言えば、それは「世の中なんて変えられる」という楽観論でもありえるはずだ。「明日のことなんてわからない」ということに対するポジティブな楽観論である。「明日のことなんてわからない」ということに対する、不安と楽観の姿勢の違いである。それって単に気の持ちようではないのか。「わからない」から不安に感じるのか、「わからない」から面白いと感じるのか。そういうことではないか。
安定を求めるということは、ある意味、本能的なことであろうとは思う。それは現状肯定な姿勢である。だがしかし、「変化を求める心」というのもあってしかるべきではないのか。もっとよい世界を望むこと。「ここではないどこか」を探し求める気持ち。
「希望」という言葉は、現状肯定ではなく、もっとよい生活を望むそんな気持ちではないだろうか。
「世の中なんて変えられる」という楽観論よりも、「所詮、世の中こんなもん」、「世の中を変えるなんて無理」という現状肯定、悲観論が主流となっているのが今の現状かもしれない。
世の中に対して、自分が与えられる影響なんて無に等しいという、そんな感じが「世の中を変えるなんて無理」という前提につながっているのかもしれない。まあ確かに、「俺が世界を変えてやる」なんて考えは傲慢不遜な考えかもしれないが、でもそんなチャレンジがいくつもいくつもつながれば、世界は変わっていくんだろうと私なんかは思う。自分ひとりでは無理でも、同じように考える人たちが連携すれば、世の中変わっていくだろうと私は思う。「同じ思いを持つ」という人たちが連携することの可能性は、ネットによってすんごく大きくなったと思うんだけどな。
「ネットが世の中変えていく」ということに対して、もっと信じてもいいんじゃないかと私は思う。小さなところから変えていけばいいじゃん。それが私のネットについての楽観論。
「世の中、変えられる」と思っていこうや。閉塞感なんて、ぶっ壊していこうや。つまんない世の中なんて、そんなもんぶっ壊していこうや。
壊せ壊せ。自分も壊せ。変わることを恐れるな。
そんな風に思うのです。
失うものなんて、自分以外に何もない。失うことを恐れるな。失って困るものなんて、自分以外に何もない。
失うものなんて何もないという開き直りが、今、必要なんではないのかな。
第三弾は、まとめとして成立してますので、私がコメントすることはもうないのですが、芥川龍之介の話が少し出てますので、補足ということで、コメントを残しておきます。
芥川龍之介というのは、芥川賞というのもあって、まぁ文豪ということで、こんなこと言うと怒られるかもしれませんが(笑)大正十年の3月から10月まで大阪毎日新聞の海外視察員として、中国を旅しています。そして、それが今では文庫本にもなってて「上海游記・江南游記」として出ています。2001年くらいですかね、私が上海を取材するために、昔の上海もみっちり勉強しようと思って、これと横光利一の「上海」も読んだのですが、芥川龍之介って、こんなに文章、ヘタだったのとがっかりした覚えがあります。なんか、自分の体験談を書くとなると、小学生の作文のようにしか見えないのです。
「私」が…っていう時に、なんなのかわからないんですが、えっ、これがあの名作をいっぱい残した芥川なの?っていう感じなんですね。
「作品」と「作者」の関係が対応しているとは思わない人なんですが(私)、落差が烈しすぎる。そんな感想でした。
もう一つ、同じことを感じたのが、三島由紀夫です。私は文学少年ではありませんので、こういう文豪の作品を読むのはホント仕事と絡んだ時なんですが、タイに取材に行った時、三島由紀夫の「豊饒の海」を読んで、タイに旅行に来ている日本のシニアが多いのに驚いて、「豊饒の海」を読んだことがあります。これ読むと、この人がどんなにタイの寺院や王の歴史を調べ上げているかがわかり、歴史学者も顔負けレベルなんですが、ノンフィクションの「私」を語り出すと、市ヶ谷の事件みたいになっちゃう。到底「豊饒の海」を書いた人がやったこととは思えないんですね。
この二人は何かを乗り越えられなくて、なんらかの不安があって自殺してますが、共通点は、乳母に育てられていることみたいです。あと、吉本隆明がもう一人付け加えていますが、太宰治も乳母に育てられたいう経緯があります。この自殺した大文豪3人は、凄くいい作品を残しているのですけど、こと、私生活となると、なんか歯切れの悪い、なんか不安がいっぱいで、それらのいい作品とは、彼らの格好の逃げ場所と言ったら、本当にはり倒されますけど、創造・想像力の自由の場で、そういう不安を忘れることができる場所だったのかなと思います。書いている時はいいんだけど、書き終わるとまた、不安な何かがでてくる。それを繰り返していると、だんだん、ずっとつきまとうものとかんねんしてしまうのかなっと…
第二段の時、少し書きましたが、「マジすか学園」の時ですか、母親との関係に失敗した娘たちの暴走みたいなこと…
鍛冶さんが書かれている、芥川の言葉の共通性、もしあるとしたら、そこじゃないでしょうかね。
芥川とか三島とか太宰というのは、もう明らかに母親との関係に失敗しています…
それと、現代の私たちですが、乳母なんかという制度はないけど、母親の立ち位置が昔とはだいぶ状況が変わってて、どっぷり母親に愛される状況は薄く、なんとなくどっぷり守られて、その分、その後、何か不安なことがあっても、母親とのいい思いでを支えに、何かに立ち向かっていく、ことができないんじゃないでしょうかね。が故に、エディプスの乗り越えもしない。まず、身近な父親も友達みたいで、話のわかる家族とそれなりに過ごす。何かで読んだことがありますが、反抗期ですら、親に刃向かったって、こづかい減る、面倒くさいだけでって、反抗しない子供が増えてるって。それが極端に裏目に出てきた時には、殺し合いになってしまう。その中間といいますか、愛情はある家族関係の中での反抗というのがなんとなく成立しなくなっている。
「空気を読む」ということが、そういう社会状況から熟成されて、出てきているとしたら、根が深いなと思いますが…
しかし若い人でも「空気は吸う」だけにして、がんばっている人達もいくらでもいるわけですから、こういうことは強く意識していけば、いくらでも変わっていくと思いますけどね。
今日は、子供の運動会でした。ちょっといいことがありましたよ。去年は若いパパ連中がリレー競争で、マジで走っても面白くないから、ちょっと演出しようなんていう、前うちあわせがあって、ああ、こういうところにも、「運動会の空気を読む」みたいなくだらないことあるのか、と呆れてましたが、今年は、ちょっと体育会系の人、増えましてね、ガチで走って、マジでこけてる人も多くて、みんな素で楽しんでましたね。
こんな話はピンポイントなんで、上の長々書いた話とリンクしそうもないんですけど、トレンドは「マジ」「ガチ」にキテルかもしれない(笑)
「マジ」でやると、かなり疲れるんですけど、なんかやったよなぁという爽やかな気持ち・ちっちゃなしあわせ感はありますね(笑)
投稿情報: snafkin7 | 2010/10/17 21:33
「母親との関係の失敗」。
これは重要な指摘かもしれません。
私は男なのでその立場からしか語れませんが、母親とうまくやるということは、現代ではかなり難しいことのようには思います。
突き放され、無関係になるか、どっぷり過保護に浸され、飲み込まれるか。そんな二者択一な状況になっているような気がします。本来、母性とは寛容の象徴。全てを受け入れる存在。子供がどんなワルであっても全てを受け入れるような。全てを受け入れ、包み込むようなそんな存在。
しかし、そんなキャパシティを持った人間が、今、いるのか。
ここにも他人の目を気にし、空気を読むという流れがある。他者との比較というやり方が顔を出す。
受け入れる母性の欠落。
いやしかし、母性が欠落しているとしたら、父性はどうなのか。厳しく裁き、批判する存在としての父親。
社会的規律を教え、それに基づいて裁く存在としての父性。それもまた今の時代に欠けているもののひとつではないだろうか。
裁く父性と守る母性は両輪であろう。
しかし今、他者との比較を持ち出すのは母親。
子供を導く者が今は誰もいないのではないか。社会のルールがむき出しのまま、無防備な子供の周りを囲む。社会という権力。学校と言う権力が、相対化されないままに子供を抑圧している。いや、子供同士の世界はまた違ったものなのかもしれない。子供同士の世界は正直、よくわからない。
ところで女の子の場合はどうなのか。母親と娘の関係はどうなのか。それは同一化の関係であるのではないか。想像でしかないが。母親の価値観に飲み込まれ同一化するか、それに反発し関係を断絶するか。二つに一つしかないのではないだろうか。
そして、「ぼんやりした不安」。芥川龍之介のこの言葉は優れたコピーであると思う。芥川の真意とは離れて、何かを言い当てている言葉。
それは目標を見失った状態を指した言葉ではないか。目指すべき理想を失った状態。戦うべき相手が見えない、わからない状態。
何を目指すのか。どこへ向かうのか。
それは、生き残ることが命題ではなくなった豊かな時代の贅沢な悩みなのかもしれない。
何のために生きるのか。それはとてもとても根本的な問題。
おまえは何のために生きているのか。それはあまりにも重い。
豊かさのその先は、根っこに戻ること。根源を問い直すこと。何を望むのか。どうしたいのか。
でもそれは、みんながしあわせになることを考えるというシンプルなところではないだろうか。
自分のことばかりではない。みんなのことを考えることではないだろうか。
誰かのために生きること。
自分と向き合うことの先には他者がいる。
自分ではない誰かのために生きることはしあわせ。
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2010/10/20 00:58
いつも、とりとめのない話をちゃんとまとめていただき、ありがとうございます。
今回は、ここに埋めておきたい言葉があるので、埋めておきます。私が大好きな芝居のラストシーン。この芝居を一緒に見に行った当時の恋人は、もうこの世にはいません。しかし、この芝居を見終わった後、食事に行き「いい芝居を見たね」と二人で言い合いしばらくシアワセな気分でいました。
第三舞台「トランス」より ラストの長台詞
「私の愛する人は精神を病んでいます。
ですが、私は、とても幸福です。
あなたが私を必要とする限り私は変わり続けられるのです。
私があなたを愛する限りあなたは私の大切な人なのです。
あなたがなにに傷つきあなたでなくなったのか、
あなたの哀しみの深さを私は知りません。
ですが、あなたが私を必要としていることだけは、
私は分かります。
あなたがどんな妄想に生きようと、
わたしがどんな妄想に生きようと
あなたが私を必要としていることだけは、分かるのです。
そしてそれはどんな妄想より大切な真実なのです。
そしてあなたのそばに私がいること、
私のそばにあなたがいること
すべてはそこから始まるのです。
私の愛する人は精神を病んでいます。
ですが、私は、とても幸福です。」
投稿情報: snafkin7 | 2010/10/20 08:30
この一連の文脈の中で読んだからでしょうか。次の言葉が私に刺さりました。
「あなたがどんな妄想に生きようと、わたしがどんな妄想に生きようと、あなたが私を必要としていることだけは、分かるのです。そしてそれはどんな妄想より大切な真実なのです。」
いろんな解釈が可能でしょう。私の解釈はこうです。「あなた」と「わたし」はどこまでいっても他人同士。恋人同士であろうが、夫婦であろうが、親子であろうが、存在としては他者。どうしたってひとつにはなれない。
そこには分断がある。どんなに親しくても越えられない溝がある。それは主体と客体との間の溝。断絶。認識するものとされるものとに分かれてしまう。
「あなたがどんな妄想に生きようと」「わたしがどんな妄想に生きようと」とは、その断絶を示す。
どんなに近しい間柄であったとしても、互いの認識が完全に一致することはありえない。
それぞれが自分の認識の中で生きている。一致することはない。
それは確かに「自分の妄想の中で生きている」ともいえる。重なることはあっても、完全に一致することはありえない。
それはコミュニケーションの断絶。「溝」。
その考え方からすると、「あなたがわたしを必要としていることだけは、わかるのです」という言葉も、それは「わたしの妄想」。
けれど、その「わたしの妄想」は、わたしにとっての「大切な真実なのです。」
そう。「わたし」が「妄想」の中に生きている以上、「わたしの妄想」は「わたしにとっての真実」なのです。
このことの目もくらむような多重性。
認識主体=主観が妄想であるならば、主観にとっての真実のみが真実。
その意味では真実とは、「友達が言っていたこと」ではない。「メディアが言っていたこと」でもない。「えらい人が言っていたこと」でも、もちろん、ない。
わたしが信じたことこそが「わたしにとっての真実」。
「愛は幻想」と言われます。「愛とは自分にとっての理想を相手に勝手に投影すること」とも言われます。それは真実。なぜならそれ以上先には、どうしたって進むことができないから。
真実とは信じることに等しい。根拠がどうとかではない。「論理」なんてものはそれ程までに無力。信じる者は、「論理」では止められない。「妄想」は止められない。
「信じる」ということはそれ程までに強いもの。
しかし、「不安に思う」ということは、そこまで信じられないということ。
そうであるならば、「ぼんやりした不安」に覆われた現代とは、妄想力が不足した時代なのかもしれません。
「信じる」ことができない。
それは不安でしょう。無力感を感じるでしょう。
何しろ日本人は宗教を持たない。頼るべき神を持たない。
だったら、自分を信じるしかないだろうと私なんかは思います。どうせ「妄想」なんだから。何を信じたって、所詮は「妄想」なのだとしたら、せめて、自分が本当だと感じられる「妄想」を信じたらいい。
ということで、自分に向き合うというところに話は帰ってきました。「自分(の妄想)を信じる」というところに。
ところで、話は戻りますが、「ぼんやりした不安」を口にした芥川龍之介という人は、もしかしたら、コミュニケーションの苦手な人だったんではないでしょうかね。
リアルな世界ではなんだかうまく生きられず、フィクションの世界でひとつの世界を創りだすというのは、そういうことのような気がふとしました。
フィクションの世界では、整合性のある一貫した世界を創ることができても、リアルな世界では他者という、コントロールのできない予測不能な存在があるために、自分の思い通りにはいかなかった。芥川龍之介については私は無知でありますが、なんかそんな気がしました。
自分の「妄想」を他者の「妄想」とうまくすり合わせることができなかった。そんな気がしました。
時代の先をゆく人とはそんなものなのかも。
と、結論めいたところで、話は急速に転換しますが、このコメントでのsnafkin7さんとのラリーについても、重なりながらも完全には一致しないそのズレの部分がとても面白いのかもしれないなと、思いました。それが運動力・展開力になっていたのかもしれないなと。
だって、完全一致の世界なんて、予定調和みたいで面白くないじゃないですか。
ズレがあるから面白い。
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2010/10/21 00:48
おかしな話なんですが、私も鍛冶さんと近いながらも、違う窓から予想しなかった色の紙飛行機(メッセージ)が飛んでくるのを楽しんでいましたね(笑)
輪を綱引きしている感じもありました。同じテーマを引っ張りあいしているのですが、回転していくうちに違う柄が見えつつ、どっちがどうのでもなく、力だけは入っているみたいな…
私はいつも丁寧に語らないんで申し訳ないんですが、芥川の上海旅記であきれたのは、なんか船酔いの薬をもらったのだけど、それを飲むか、飲むまいか、うじうじしている文章を長々書いているんですね(笑)それ、読まされるのってツライんですよ。早く飲めばいいじゃんかと…
そして、それが晩年になると、妄想が中心になってくるんですね。自分が脱ぎ忘れて持ってきた片方のスリッパ、自分が履いてきてしまってそこにあるのに、スリッパが追いかけてきた、みたいなことになってくる。そして、スリッパが自分の方に追いかけてこないように見張りをつけてくれ、みたいな。
始めは自分の精神を安定させるために物語をしこしこ書いていたのだけれど、そうこうするうちに、リアルな世界が薄れていって、リアルな世界まで、フィクション的な演出をしはじめる。フツー、オカルトでない限り、スリッパが追いかけてくるという発想はしないのに、スリッパが追いかけてくるということを信じて疑わない。見張りをつけてくれと…
あの、河童とか、煙草の悪魔とか、ああいう世界に入り込んでいて、もう出てこれなかったんでしょうね。
ぼんやりとした不安、うじうじ、さはもとからあって、だんだん烈しくなってくると、ちょっと自分、ダメなんじゃないかと、というようなことを思うこともあったんじゃないでしょうか。
生まれてきた時、やはり母親との絆って凄い大事なんだと思います。絆をちゃんと結べなかった彼は、生まれてから、ずっと、不安で不安で、それが無意識の頃ですから、「ぼんやりとした不安」として心の底にいつもある。
何かの経済誌に外国の大昔の残酷な実験のことが載っていました。NEWSWEEKか何かです。奴隷制度のあった時代、赤ちゃんは抱っこを求めてきますが、抱っことか、抱擁をしなかったら、赤ちゃんはどうなるか、という実験を奴隷の赤ちゃん、複数を使って、実験したらしいのです。ミルクはちゃんと与える、排泄もきれいにしてやる。眠らすのも眠らす、しかし抱っこしてあやすことを一切せず、抱きしめて、甘い言葉もいっさいかけない。すると、赤ちゃんは次々に早く死んでいったというのですね。
芥川とかは乳母がいてましたから、代理母ですが、それなりに抱っこもしてもらったし、抱擁もしてもらってたと思います。しかし、太い絆は結べなかったんだと思います。
今は働く母親も多いですし、もう歩くようになったら、どっかに預ける、それはそれで仕方ないですけど、母親と離れるのがかなり早くなっている、また早く乳離れするのが賢いみたいになっている。母親との甘い関係を結べる期間が凄く短くなっているような気がします。
「トランス」の台詞のように、妄想しつつも必要とされている、絆、紐、が見えればまだいいんですけど、妄想しか見えなくなると、凄く宙ぶらりんで、不安定で落ち着く場所が見えなくなる。
絆というか、必要とされている、感覚は大事なんでしょうね。秋葉原の大量殺人事件の公判が進んで、わかりましたけど、あの人も母親との関係は大失敗しています。九九ができないと風呂に沈められるわ、そうこうとするうちに、家族に自分は必要とされていない感覚になっていく、最後には社会にも必要とされていないと思いこんで、ああいう衝撃的なことをやってしまう。あの人の場合は、社会に必要とされない、以前に家族に、母親に必要とされていない感覚で、もうつまづいていると思います。
鍛冶さんが、最初の頃に、書いておられた、ビール、発泡酒が旨いというシアワセ、それもそうなんですけど、それの大前提に、社会と、家族と、友達と、つながっている感覚があればこそ、で一筋のあったかいつながり、紐のない人は、美味しいお酒を飲んでもシアワセと感じることはできないのかもしれません。
これを書きながら、少し寒気がしましたが、芥川の「蜘蛛の糸」という作品。あれ、意味深ですよ。芥川が何かとつながりたいと思っていた希望の糸だったのかもしれません。その希望の糸すらプツンと切れる。
自分の心象風景だったのかもしれません。児童文芸誌に載せた作品ということも、なんかありそうですね。
投稿情報: snafkin7 | 2010/10/21 04:43
追伸
いちばん始めまで戻ってましたが、鍛冶さんは、やはり第三のビールを飲むだけじゃなく、消費税を通して社会とつながろうとしていますよね(笑)だから110円でもシアワセを感じることができるのかと…
“自分の幸せのために払った110円に対する消費税も、きっと誰かの幸せのために使われるはずだと言い聞かせ、信じることもまた、楽観主義なのでしょうか???”
英語ってよくできてますね。I Love You. I Need You. I Want You.
愛することは必要とすること欲すること、愛されることは必要とされること欲されること.
そして、I Miss You.
関係を見失った時、人は寂しい気持ちになり、シアワセから少し遠ざかる。
そして、さらに強く
I Wanna hold your hand.
となればいいんですけどね。
投稿情報: snafkin7 | 2010/10/22 00:43
「スリッパが追いかけてくる」という芥川龍之介の妄想。それは、世界に意味を求めすぎた結果ではないのかな、と妄想いたします。自分の存在を母親から無条件に、全面的に受け入れられることがなかったことによる不安。
その不安、欠落を埋めるために意味を求めたのではないでしょうか。世界の存在する意味を。自分の生きることの意味を。神話的な世界観を。
科学的な世界観の中には「意味」はない。生きることの「意味」については科学は教えてはくれない。科学的な世界観の中は、「無意味」な世界。「なぜ、生きるのか」という問いかけには科学は答えない。
それを埋めるのは「神」であり「宗教」であるのではないでしょうか。
「宗教」を持たない日本人にとっては、それは「昔話」であり「神話」の世界。「大きな包み」より「小さな包み」。他人にやさしく、正直に生きることの価値。「お天道様が見ている」。
そんな風に世界を意味づけている。そんな風に意味づけないと、世界は無意味であり空白であり虚無であり寒すぎる。
地震や日照りには意味がある。疫病の流行にも意味がある。幸運や豊作にももちろん意味がある。そうなってくると、スリッパが追いかけてくることにも意味がある。
しかしそんな意味づけを考えすぎると妄想化してしまう。不安を埋めるための妄想が巨大化しすぎると、他人との共有ができなくなってしまう。そうなると妄想は更に膨らみ負のスパイラルとなる。
それとも、地震や日照りには意味はないのでしょうか。気圧や地殻エネルギーといった理由で説明がつくのでしょうか。私自身は微妙な位置にいる。科学で説明のつかない偶然というものを私はどこかで信じている。シンクロニシティ。セレンディピティ。或いは東洋的な用語でいうならば「縁(えにし)」。見えない因果関係。まあそれを超常現象と呼ぶもよし。単に、現在の科学が足りなくて説明できてないだけだと考えるもよし。
けれど、科学的世界観だけではあまりにも薄っぺらで、貧弱で、この世界は寒すぎるのではないでしょうかね。寒いから、手をつなぎたくなるのでしょうか。
まあ、自分の妄想の外に出ることはできないのだとするならば、できるだけその妄想を他人と共有できるようにしていきたいものです。妄想の重なる部分を広げていきたいものです。
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2010/11/03 13:33
内戦状態にある国の人は、恐怖や不安は日々の現実であるでしょう。爆弾が爆発したり銃弾が飛び交ったり戦闘による死者がでる。それは他国のことではあるけれども現実。
そして今はいろんな国が不安定になっている。オープン化とは逆の保護主義のきざしがあちらこちらに生じている。
将来なんてどうなるかわからない。不安な要素はいろいろある。
戦争だって、非現実的な仮定の話ではないと思う。
自分の身近な不安にビビッて縮こまっていても始まらない。
それにしても日本という国は平和だと思う。
危険を感じることがとても少ない国なのだろう。
空気を読んで行動することで、緊張感を極小化することに成功した集団なのかもしれない。
危険がない訳ではないはずなのに。
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2010/11/07 17:30
「誰かから必要とされていると感じることが大切。」
そのとおりなんでしょうね。
孤独には耐えられないものなんでしょうか。
「つながる」ということは、どれほどまでに大切なことなんでしょうか。
なぜ、それが大切なのか。そして、どうすれば「つながる」ことができるのか。
そんなことを次は考えてみたいと思います。
私にとってそれは、閉鎖系ではだめで、開放系でなくてはいけない、というテーマのような感じなんです。
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2010/11/07 17:39
ちょっと、書き遅れてるんですけど…
「フリーター、家を買う」というドラマの台詞
最近2話分は
結構、ここのテーマにニアで
おっと、と思います。
投稿情報: snafkin7 | 2010/11/25 01:10