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2010/10/10

コメント

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snafkin7

ひろゆきっていうのは、いろんな目で見られてますが、同大学同学部の後輩にあたる人物なので、昔から好きですね。そこの学部に行くこと自体、もうちゃんと働くということを諦めていることを選択しているようなもので(笑)なんとなくよく理解できるんですね。彼のやってること、言ってること、姿勢とか。
先輩にあたる人物に秋元康がいますが、あの人もよくわかるんですね、付属高校あがりの人は、大学入る頃にはもう何か、はじめていた人が多かった。

どちらも学校なんかに頼らず、わが道を行くで突っ走った人で、頼もしい人達のいい例じゃないでしょうか。

しあわせ論、もっと進めていくと、子供の頃から、少年・少女時代からいろんな選択肢があって、好きなことに、しあわせと感じることに、うちこめる環境があること、じゃないでしょうか。

この間、元マラソンランナーの人にインタビューして裏話で聞いたんですが、

今、運動会シーズンでしょ。そういう運動会のために、早く走れるための塾っていうのがあるらしいんですよ。表面上は何等でもいいよとか、そんな順位つけるのおかしいとか、言っておきながら、早く走るための塾なんかが存在してて、そこそこ通っている。

その元マラソンランナーの方は呆れてましたよ。びっくりしましたって。その人も走るのが好きで好きで、でも小学校の時のマラソン大会で2位になった。悔しくて悔しくて中学の陸上部で真剣にやっていったら、日本記録を出すようになってしまった。ボストンマラソンの時は凄い記録出したんですが、記録よりも、本当に気持ちよく走れて楽しかったって。ホントに明るい顔でね。

それで子供二人、生みつつ、今、マタニティウォーキングみたいなことも教えられています。

自分の体験をいかして、楽しく、産後の体重の戻りがいいように効果的に走るしあわせを広めようとされてるんですね。

その長女さんはまだ小さいんですが、お母さんに楽しく教えてもらってるみたいで、綺麗なフォームで走るんですね。

ああ、いいなと…。

まぁ、今の学校環境のことって、凄く疎いんですけど、いい環境もあるんでしょうけど、世のニュースを見ているとやっぱりいまいちなんでしょうね。

あんまし関係ないし、実際見た話ではないんですが、パリの小学校とか、朝、先生が教室を見渡して、その日、服のコーデイネイトがいい娘に、「それはママがしてくれたの、自分でしたの?」から一日の授業が始まるって。そんなこと、毎日やってたら、みんなオシャレテクがつくわけです。日本なら差別だとか、貧富があるからとか文句たらたら出るんでしょうが、別にお金かけてなくったってそのバリの先生はアイデアを評価すると思いますけどね。

なんかね、標準的な価値観からみんな解放される日はないんでしょうかね。

鍛冶 哲也

ひろゆき氏って、世の中なんとかしようとかの発想がないみたいですね。それに比べたら勝間女史の熱いこと。この本の中で「おせっかい」と呼ばれてました。説教好きなタイプなんでしょうかね。「あなた、そんなんでいいんですか!?」みたいな。

ひろゆき氏はひとに説教とかしなさそうですもんね。

「標準的な価値観からみんな解放される日はないんでしょうかね。」

・・・空気読めないとか言ってるうちは無理でしょうねぇ。空気読まないになったらいいんでしょうけど。

個人的には、やっぱり教育がよくないように思いますけどもね。この本の中でも、教育は「洗脳」だと言ってますけど。日本は教育のレベルが高いことは高いと思うし、それも大切なことだとは思うのですが。

学校って、金太郎飴をつくることを目指してる気がして。偏差値みたいのを大切にしますよね。ひとつの基準で一律に順番つけるみたいな。学校というのは抑圧するための制度のような気がします。いい子、わるい子の区別をつけたがりますよね。

そういう抑圧の弊害について、教育者の自覚が全くないんじゃないでしょうか。自覚がないってことは怖いと思います。

でも日本人の学生の学力が落ちてるとかいう話もありますが。それってテストの話なんだよな。

自分で考えることって、難しいことですよね。それって情報量が増えてることと無関係ではないような気がします。情報量が少なかった昔は、それこそ玉子焼きひとつつくるにしても、ネットで調べるとかがなかったので、母親に聞くか、自分であれこれやってみるしかなかった。

今だと、「絶対に失敗しない玉子の焼きのつくりかた」みたいな情報があったりとか。

mugendaiさんのブログにもありましたが、検索に頼ってると、自分の頭で考えることは確かに少なくなるかもしれません。→インターネットでバカになる人、リコウになる人http://bit.ly/d3Kz8B

今の自分をあるがままにそのまま受け入れることとか、自分が今、どう感じているのかについて、自分について掘り下げることとか、自分自身にこだわることって大切なことだと思うのです。

自分の感覚を信じて、そこに戻ること。

自分が今、生きていることを、実感として感じること。実存主義って感じですかね。

KYなんていってると、難しいのでしょうけど。でも底の方まで探っていかないと、表層的なことで時間なんてすぐにたってしまう。限られた時間。自分の寿命というものに無頓着だと、人生なんてあっという間に過ぎ去ってしまうものなのでしょう。

それはそれでいいのかも知れないけれど。

snafkin7

学園ドラマの話をしてもいいですか。
ちょっと自分の中で凄く不思議に思ったことがあるんです。

土曜日の昼にNHKBS2で夏に代々木体育館であったAKBのライブ90分を放送していて、録画して繰り返し見ているんですが、どう見ても最高潮に盛り上がっているのは、「マジスカ学園」っていうAKBドラマ(テレビ東京)の「マジジョテッペンブルース」の8分くらいのパフォーマンスなんですね。

無茶苦茶荒廃した女子校なんですね、マジスカ学園、毎日、血を流しながら、誰がいちばん強いかって、いう場になっている。先生もいてるんですが、このドラマにおいて、先生の印象なんて無で、なんか荒れた教室と荒れた生徒しかいない学園なんですよ。はじめ、なんでこんなこと、AKBにやらすのか、全然意味わからなかったんですよ。喧嘩のシーンも手ひどくくて、毎回、毎回、血だらけなんですよ。

ところが、最終話に近づくと、みなみっていう娘がでてきて(出てきてる時点でリンチで殺されてるんですが)、この娘は喧嘩を卒業しようとして、喧嘩友達ののあつこも喧嘩卒業させようとして、身代わりになって死んでしまう。喧嘩より「マジ」になること、自分に「マジ」になること、を示しながら死んでいく。

このドラマって、12話くらいあったと思うんですが、その1メッセージなんですよ。「マジにならなきゃ、勝てねぇよ」これ、はじめは喧嘩のことなんですが、だんだん、自分の夢に「マジにならなきゃ、勝てねぇよ」ということがわかってくる。

過去、いろんな学園ドラマ、ありましたけど、日本テレビで長く続いた青春シリーズも「あさひが丘の大統領・1979」で終止符をうち、それも先生が主役だったし、金八先生も先生いるし、ごくせんだって、先生はいる。

しかし、秋元康原作のこの「マジスカ学園」は先生、いないも同然なんですね。

こんなに荒れた学校はないでしょうが、生徒から見た学校の心象風景って、結構近いのかなって思ってしまいます。なんかドロドロした権力争いみたいなのがあって、先生は助けてくれないし、生徒間の派閥みたいなので、なんとか光をみつけようとしている。

ドラマの方では、いろんな友情みたいなのが芽ばえてきて、最終的には「マジ」に生きることで、みんなが一つになっていく、みたいなことで、それなりに美しいラインで収斂していくので、マジスカ学園、ヒドイんですけど、現実の学校より血なまぐさくて人間味のある学校だったかなと…

なんか、ドラマ見てる人間はそう思ってて、このライブパフォーマンスの時、異常な盛り上がりを見せるんですよ。ドラマの人物が全員、それぞれの決めぜりふを吐いて、最後に、死んだみなみが出てきて、喧嘩よりも「マジ」に生きていこうぜ、みたいな歌詞を歌う。

盛り上がってるというか、渦巻いている感じで盛り上がってますね。

フツー、アイドルにここまで汚いヨゴレ役やらせないんですが、やらせてウケテル。しかも綺麗事、いっさいなしで、「マジ」に生きろよという1メッセージはしっかり伝わっている。なかなかのものかなと思います。

ひろゆき、ホリエモン、勝間さんが、AKBについて語ってる動画見ましたが、まぁ、無茶苦茶言ってましたね(笑)それもまたよしなんですが、丁寧に見ていくと、そんなことも言えるんですね。

実際、学校には先生いてるんですけど、生徒の心象風景の中には、もはや先生はいないのではないか、みたいな感じ。生きるってことの学校にはなってないんでしょうね。

鍛冶 哲也

ドラマや映画や小説などフィクションの世界では極端な設定を置くことによって、テーマの本質を強調して描き出すという手法はありますね。私の好きなSFなんかもそんな類だと思うのですが。馬鹿馬鹿しい設定でフィクションを強調しつつ比喩的に、風刺的に現在を批判する方法なのかも。マンガも同じかな。

マジスカ学園の話、読んでいて「北斗の拳」とか「魁!男塾」とかのマンガを連想しました。もっともこれらのマンガのターゲットは男子であり、「強くなりたい」という願望をベースにしいているのでマジスカ学園とは違うかもしれません。

暴力的な世界の描写を通じて制作者は何を描きたいのか?「正義とは何か」みたいなことではないでしょうかね。不正に対して正義の鉄槌を下すのは結局は暴力によるしかない。

正義が通らない世界に対する不満を解消するためには暴力的な解決を必要とする。逆に、暴力の行使を正当化するために正義の御旗が必要であるともいえる。

mugendaiさんがドラマ24のジャックバウアーについて書いていましたが(http://bit.ly/dCfyyY )、北斗の拳しかり、ダーティハリーしかり、ダイハードしかり、必殺仕掛人しかり。不正を正すために暴力に訴えるという物語は途絶えることなく繰り返されている。

でも何か、マジスカ学園の話はそれとは違うみたいですね。人間関係における軋轢や対立の比喩、極端化としての暴力でしょうか。そんな世界における「マジ」とは何か。

負けても、曲げない。ということでしょうかね。普通、負けると相手の軍門に降りますから。相手のいいなりになる。子分になる。そうならないためには闘い続けるしかない。

そのためには、自分の中に「芯」が要る。闘い続けるための動機が。それはやはり自分の中の曲げられない正義であり、それこそが「マジ」なのでしょうか。

屈服や服従に対抗するもの。自分の中にある譲れないものを浮き彫りにするための舞台装置としての暴力的世界なのでしょうか。

現実の世界では、妥協したり、すり替えたり、逃げたり、取引に持ち込んだりして、ガチンコの対決は避けるのが普通。それは問題の回避であって、解決ではない。

そしてまた、暴力はダイレクトに自分ごとの問題でもある。他人ごとではない。それこそ、生きるか死ぬかに直接的に関わってくる。先生や社会という他人に頼れない状況では自分でなんとかするしかない。

暴力の直接性は曖昧な解決を許さない。

社会的地位も学校の成績も人間関係も様々な関係性を剥ぎ取った、むきだしの自分という主体性を浮かび上がらせるための舞台設定なのかもしれません。自分と向き合うことのための。

先生の不在もそのための設定?自分たちの問題に対して、大人がなんとかしてくれる訳ではない。自分たちで解決するしかないんだという。

う~む。今回のこのコメントは、snafkin7さんのネタふりに対してはまるで的外れかもしれません。ごめんなさい。どうも、「暴力」とか「正義」とかいうワードは私の暴走につながる隠しスイッチなのかも。

snafkin7

いや、おそらくマンガを連想されたように、下敷きになっているのはマンガの世界かもしれません。

そして、それの女版なのかもしれません。

「社会的地位も学校の成績も人間関係も様々な関係性を剥ぎ取った、むきだしの自分という主体性を浮かび上がらせるための舞台設定なのかもしれません。自分と向き合うことのための。

先生の不在もそのための設定?自分たちの問題に対して、大人がなんとかしてくれる訳ではない。自分たちで解決するしかないんだという」

AKBの世界でよく使われるキーワードは「マジ」ともうひとつ「ガチ」だったりします。

「ガチ」な人間模様を描きたかったということであれば、上のようなことは言い得てますね。

最近、身近な人でパワハラで訴えられている人が何人かいます。みんな若い世代にです。まぁその人もそれ相当のことしているから、そういうことになってるんでしょうが、えっ、ていう人達なんですね。一言の失言で…まぁ、その関係の中にいませんから、よくわからないんですが、こういうことになるとガチに向き合う機会はないですね。

学校でも同じでしょうね。何かとすぐ訴えられる関係にあったりすると、ガチに向き合う機会は少ない。

とすると、先生だけの問題だけでもなくなってきたりして…

怒ってくれないと嘆く若い人がいるようですけど、迂闊に怒れない状況もある。

なんか、そんなこと気にしてると、空気読むとか、そういう変な調和が必要になってくるんでしょうか。

空気読む、って言葉は実は結構サイレント・バイオレンスであったりします。

空気読めない奴は、後でみんなに笑われるし、陰口たたかれるし、訴えてやるぜ、みたいな。

息苦しい「空気」になっているもんだと思います。

鍛冶 哲也

そういえば、永井豪のマンガに「バイオレンス・ジャック」という作品がありました。

法治国家の崩壊した暴力の支配する世界で、「正義らしきもの」のために圧倒的な暴力を振るう存在。その過激な暴力は相手に対してその罪の重さ軽さを判定することなくまた情状酌量といった情け容赦なく死を与えた。

その過激さは、「正義のための暴力」という偽善を暴くような、圧倒的な暴力描写だった。正義のためであれなんであれ暴力というものの残酷さを描いた、突き抜けた作品であったと思います。(あんまりちゃんと読んでいないんですが)

その暴力のカタマリであるようなジャックが、助けた子供にその対価として求めたのが、「よく生きよ」ということでした。

印象的なシーンでした。ある種の衝撃であったかもしれない。当時の私にとって、「よく生きる」ってどういうことなのか。疑問をつきつけられた。答えは与えられていない。自分で考えろということ。

マンガから、こんな風に「考える」ことを要求されたことはなかった。

永井豪という作家は、すごい人だと思います。

私は「よく生きている」だろうか?

鍛冶 哲也

snafkin7さん
コメントありがとうございます。

私のひとつ前のコメントとsnafkin7さんのコメントの投稿時刻が同時で、なので私のコメントはsnafkin7さんのを読む前のものです。

さて、パワハラなんて言葉がでてくると何やらキナ臭いというか生々しい話になってきますね。

まあ、私もいろいろと自分をみつめろとか偉そうなことを書いてますが、自分でそれができているのか?

相手の懐まで踏み込んでコミュニケーションをとっているのか?

メディアの情報を鵜呑みにすることなく自分自身で判断し、行動しているのか?

世間で言う一般常識や先入観にとらわれずに主体的に価値判断を下しているのか?

う~む。

そういうことを意識しようとはしている。でも特に難しいのは踏み込んだコミュニケーションと先入観ですね。いや、それ以上に自分をみつめることか。

自分で納得したことだけをするという訳にはなかなかいかない。納得できなくてもやらなきゃいけないことも多々ある。

自分の納得を求めながら仕事をしていると効率は悪い。さっさと流して次に進んだ方が効率がいいと思う。

それは程度の問題かもしれません。僧侶ではないので全ての問題にひとつひとつ自分で答えを出しながら仕事をするなんてことはとてもじゃないができない。

情報のソースをひとつひとつ確認しながら真偽をいちいち判断するような時間もない。

それでも心がけとして、そういうことを意識している。できるだけ、自分の言葉で説明できるようにしようと思っている。誰かの受け売りをそのままオウム返しにするようなことはできるだけ少なくしようと思う。

そしてもうひとつ大切なこと。できるだけ嘘を言わないようにすること。このことで随分と人生は軽くなると私は信じています。

そのことによる支障は甘んじて受けようと。他人に対して正直でいれば、自分に対しても正直になることが容易になるはず。たぶん。

snafkin7

投稿が同時とは驚きました(笑)

バイオレンスという言葉が共通していたので、てっきり、その次のコメントかなと思っていました。

自分ができているかどうか、というのは、まぁ、あまり問いつめない方がいいと思いますけど…

できないと思うんですよね。私もできてないですし、誰も完璧にできないと思いますよ。

心の根っこで、そうしている方の人、くらいでいいんじゃんいでしょうか。

「よく生きてる人」なんて実感もってる人、少ないんじゃないでしょうか。だから「よく生きよ」っていう言葉が効くんでしょうね。

それに良く似た言葉で私は、マジスカ学園の「マジに生きなきゃ、申し訳ねぇだろうが」というセリフは好きですね(笑)

鍛冶 哲也

このコメント欄をあらためて読み返して思ったのですが。

私はこのドラマを見ていませんが、マジスカ学園という暴力的な世界とは、このコメントのテーマであった、空気を読まないという世界ではないでしょうか。

空気を読んで先回りして対立を起こさないようにするという予定調和的な生き方に対する極論的なアンチテーゼではないかと。

それはすなわち、空気なんて読むな!というメッセージかな、と。

そして、ガチで向き合うというのも、踏み込んだコミュニケーションを提示しようとしているのではないかな。肉を切らせて骨を断つというくらい踏み込まないと、お互いの理解は得られない。

「まあまあそう言わんと。」とか、なあなあですませていたのでは、対立は起こさないかもしれないが、ぬるま湯の中では先へ進めない。痛みはないかもしれないが、欲求不満は解決しない。

臭い物にふたをしていては、問題から目をそらしているだけで、問題の先送りでしかない。

馴れ合いの関係からは、未来は描けない。お互いに目をそらしあっている関係では先へ進めないのではないか。

真正面から向き合ってこそ、お互いの違いも見えてくる。お互いの欠点も見えてくる。批評という行為がなければ次のステージには進めない。現状維持しかできない。弁証法的なアップグレードが進まない。

対立を乗り越えてこそ、ひとつ先へ進むことができる。対立を避けることは解決ではない。

「空気を読む」とはまさに、対立を避けることですね。

マジスカ学園とは、対立を通じて、その先へ進むという弁証法的運動(アウフヘーベン:止揚)を描いたものかもしれません。

違ってたら笑って下さい。

マジで自分と向き合おう。ガチで対立しよう。

空気読むな。対立を避けるな。それがメッセージだとすれば、それはKYという時代に対するアンチテーゼに他ならない。

そしてそれに対してファンが熱狂で応えたとするならば、パンドラの箱の底には希望という光が残っていたということなのかもしれません。

あーあ。またなんか、大風呂敷を広げちゃったような気がする。ホラフキーに改名しようかな。

snafkin7

いやいや、不思議に思ってたことを人に投げてみるものですね。

“マジで自分と向き合おう。ガチで対立しよう”

そこに、秋元康がいれば、うなづいて、まさにそれがコンセプトと言うんじゃないですかね。

ここに登場する人物たちは、いわゆる不良ですが、スレテナイといいますか、歪んでないんですよ。

AKBの場合は恋愛禁止ですから、教師との恋、彼氏との恋、が描かれていないのはその流れなのかもしれませんが、今、男描いても、情けないだけですから、逆にいい方向に動いたんじゃないですかね。

そして、決定打みたいなこと言いますと、このドラマには母性的なことが一切描かれていない。主人公の前田敦子の家庭も父子家庭で、そのお父さんが凄く気の弱いお父さんで、娘の顔色ばっかりうかがっている。母親との関係に失敗した娘たちが暴走している感じなんですね。

こういう場所(あまり人目につかない場所)なんで、書きますが、大阪の幼児2人をマンションに閉じこめて、餓死させてしまった事件があったじゃないですか、事件としては本当に胸が痛む可愛そうな事件なんですが、あの子供たちの父親の方が、私の仕事の相棒の連れなんです。夫婦関係的には夫婦のことですから、夫婦しかわからない、いろんなことがあったんだと思いますが、もっと向き合ってたら…と凄く後悔しているらしいです。なんか話を聞いてますと、彼女ももともといろんな問題があるらしいですが、最終的には、夫からも捨てられたみたいなところがあって、あの事件、子供たちがマンションの一室に捨てられたように見えますが、実際そうなんですが、実は彼女自身が、家族からも夫からも捨てられていたような背景があるんですね。ニュース的には、風俗嬢であったとか、男遊びに走ってたとか、そういうことで、ヒドイ母親だということでロックされるんですけど、彼女自身に誰もマジに向き合ってくれなく、ガチで言葉を発してくれなかった寂しい状況があったみたいです。子供は本当に可愛そうですが、あったかいものからも捨てられた彼女はあったかいものを守れなかったというような図式も見えるんですね。あったかいものを生んだのは彼女の最後の希望だったんだと思います。しあわせになれるかもしれない最後の希望だったと思います。だから、彼女がブログで子供のことを愛情たっぷりに書いてることも本気ですし、公園で面倒くさそうに子供を相手してる彼女も本当の姿だと思います。

話が少しズレましたが、突っ込んで突っ込んで今の世の中を見ますと、「空気読めよ」と言っている連中も心の奥底では「空気なんか読みたくないよ」ということもあって、「空気読めよ」と言っている自分が嫌なんじゃないでしょうかね。もしも、マジでガチで、受け止めてくれる場所があるならば、そうしたいけど、到底できるわけないから、口では「空気読めよ」と言っている。

なので、あれば、この世は、あの世でもなく、原田知世でもなく(笑)まだまだ捨てたもんじゃない。

だから、ホラフキーではない。ドッとええこと言うスキーですよ、ドストエフスキー、ちょっと遠いですか、いやマジに…笑

しあわせは歩いてこない♪〜だから歩いていくんだよ♪〜足の速いチーターの曲にこういうのありましたけど、今、思い返すと、深い言葉ですね。

365歩のマーチですか、

私たちはどこに歩いていくんでしょうね。

みたいな綺麗な終わり方で…いいバトン渡せたような気がします。

snafkin7

備忘録がわりに…

「マジすか学園」のマジジョテッペンブルースについて、真剣に語られたのは、ここがネットで初めてじゃないかと思います。
その後、SKE48とNMB48の神戸ライブでも、この曲がクライマックス曲で、NMB48においては、初めて公開で歌ったのが、マジジョテッペンブルースで、突発的とはいえ、ここで語られたのは凄く意味のあることだったと思います。

インターネットのカオスの片隅でパイこねのように語られた生身の対話、時間をおいてまた、誰かが目にすることを願って…

鍛冶 哲也

「マジとガチ」。

このコメント欄での対話のテーマは、これだったのでしょうか。

「自分」と「他人」とに、真剣に向き合う。本気で向き合う。

ぬるま湯につかっていたんでは、ダメなんだ。

「自分」のことを考えると、「他人」との関係を抜きにはできない。「他人」との関係という点については、まだ充分に議論していないような気がします。

「不安な時代」、「目指すべき未来が見えない時代」にあって、これから先を考える上では、「他人との関係」というテーマははずせない。目指すべき未来とは、現在にあってはテクノロジーの話というよりは目指すべき社会と同義であるように思います。人間関係のこれから。

それは、コミュニケーション論として、このブログのテーマでもあります。このブログのタイトルは「ネットの未来記」。特に、その社会的影響の側面に関心をもっています。つながりたいという気持ち。

ネットは、「他人との関係」のごく一部でしかないけれど。いやでも今の若い世代にとってはそうでもないのかもしれない。

PCやケータイというデバイスの進化によって、「他人との関係」の広がりは大きく広がり、接触頻度の点でも24時間常時接続の状態に近づき、コミュニケーションの量は増えているのかもしれないが、しかしその一方、空気を読んで行動し、ガチでの対立を避けているように、密度の点では薄くなっているような気がしています。

関係を求めながらも避けている。みたいな。

そんな風潮を反映してか、ブログのコメント欄も、ごく短い言葉が連なっている状態が一般的な中で、今回のような濃ゆいコメントの応酬は珍しいものであったかもしれませんね。

このやりとりは、私にとって、いろいろ考える機会となりました。普段あまり考えない深さまでおりられた気がします。

 

私が学生の頃に印象的だった言葉があります。

「さあ、生きることを始めよう」

ちゃんと生きていなかったら、生きていないも同然。
 
 
回帰するのですね。私はこのやりとりを通じて、振り出しに戻ったような気がします。もう一度いいます。

さあ、生きることを始めよう
 
 

snafkin7

備忘録2

情報過多なんだと思います。

Twitterとかで高校生とか大学生をフォローしていると、いっぱい本読んで、ネットでエッセンス読んで、凄い情報量持ってるんだけど、すぐ批評にまわってしまう。

これはツライと思います。

一部上場企業の社史を2冊ほどつくったことがありますが、会社を大きく動かしている人ってたいがいハグレモノで、偶然性がいい方向に重なったことが多いんですね。世に出る社史の裏側に別の一冊つくれるくらい、裏話が多いほど、凄い会社になってることって多いのではないかと思います。

東南アジアで凄い人脈をつくった人物は現地語を完全マスターし、最後には映画の地獄の黙示録のように、現地に根をはって、会社には戻らなかった。しかし、彼の考えたプロジェクトが未だに会社のドル箱となっている。
これは実話です。

ネットはいいことがいっぱいありますが、弊害もいっぱいあるかなと…

私は凄く字がきたないです。自分で見るのも嫌なくらいきたないです。ですから、ワープロやネットがなかったら、モノ書く仕事をしてなかったと思います。そう思うとIT全般に感謝しまくりなんですけど、一長一短という言葉が凄く気になりだしてるこの頃です。

鍛冶 哲也

高校生や大学生が、「いっぱい本読んで、ネットでエッセンス読んで、凄い情報量持ってるんだけど、すぐ批評にまわってしまう。」
 
なるほど。昔から本を読めとはよく言われる気がします。本を読むなと言われた記憶はない。「書を捨て街にでよう」という本があることは知識としてはあるけれど、その本を読んだことはない。
 
でも、本ばかり読んで頭でっかちになるな、と言われたことはある。これは考えてばかりでいないで行動しろ、という意味だったので、本を読むなという意味ではない。
 
さて、パナソニック創業者の松下幸之助、ソニー創業者の井深大と盛田昭夫、ホンダ創業者の本田宗一郎、或いはアメリカではMicrosoft創業者のビル・ゲイツ、Apple創業者のスティーブ・ジョブズ、Google創業者のセルゲイ・ブリンとラリー・ペイジ。実際のところは知らないが、これらの創業者はあまり読書家・勉強家のイメージはない。
 
他人の意見に頼らず、自らの信念を頼りに事業を起こした人たち。そんなイメージがあります。
 
変革者、イノベーターといった大きなことを成す人たちは、既存の情報に頼らない。そんな気がする。

或いは自分の関心領域に特化しているのかもしれない。
 
情報が過多である。それは間違いないと思います。過去に例がないスピードで増えているので、この情報過多に対処する上で歴史に学ぶことはできない。
 
個人レベルでも社会レベルでも、この情報過多への対処は新しいやり方を探すしかない。先へ先へと進むしかない。
 
情報量の意味ではかつてない新しい時代が始まっている今、既存のルールを守ることよりも、新しいルールをつくることが必要なのだろう。そんな風に私は思いますね。

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