2010年5月2日、勝間和代さんが司会を務めるBS放送の「デキビジ」という番組にひろゆきこと西村博之氏がゲストとして登場。ネットの匿名性や若者の起業の難しさといったテーマで議論をしました。
ところがこの対談、双方の議論が全くかみ合わないばかりか、議論に乗ってこないひろゆき氏に対して勝間氏が上から目線で自分の意見を押し付けるような印象を視聴者に与えたことから、放送終了後にネットで話題になり勝間氏のブログに数千のコメントがついて炎上したのでした。
この件については、ひろゆき氏、勝間氏双方が自分のブログで番組収録当日の非礼について謝罪と反省(と寝不足という言い訳)を掲載する形で落ち着いたのですが。
しかし、番組の中では、全く議論がかみ合わなかった状態だったので、ある意味その仕切り直しとして、ホリエモンこと堀江貴文氏を司会としてひろゆき×ホリエモン×勝間和代の3者鼎談を計7時間にわたって行い、その内容がノーカットで「そこまで言うか! Talking For 7Hours 」というタイトルで本になりました。
上昇指向の代表勝間氏、ニート代表ひろゆき氏、ネットバブル期のヒーローにして得体のしれない怪しげな元IT社長でネット界のアウトサイダー代表ホリエモンといった感じでしょうか。
34歳から42歳という年齢で、いずれもネットにかなり深く関わっている人たちであり、まあもしかしたら日本という国の次世代をつくるような世代かもしれません。(モバゲーの南場智子社長が48歳、楽天の三木谷浩史社長が45歳、mixiの笠原健治社長が34歳、GREEの田中良和社長が33歳。)
ネットから幸福論、ワークライフバランス、マンガに政治と幅広いテーマについて語り合った鼎談で面白くこの本、読みました。
で、この対談の第3章「お金があれば幸せ?」とタイトルを打たれた会話の中でしあわせについて語り合っているのですが、その言葉が先日私が書いたブログ投稿「しあわせって何だっけ?」でのsnafkin7氏とのコメントのやりとりの内容ととても近いものでした。驚くほどに。タイミング的にもシンクロニシティ的というか、みんな似たようなことを考えているんだな、という共通感覚というか。
しあわせかどうかの基準は、自分がどう感じるかであって、他人と比較なんてするものではない。他人からどう見えるかなんて気にする必要はまったくない。そんな考え方が先日のブログでのコメントのやりとりとこの本での対談の会話との共通接点。
という訳で、この本からしあわせに関する会話を引用してみます。
青志社 「そこまで言うか! Talking For 7Hours 」ひろゆき×ホリエモン×勝間和代 より
<引用開始>
勝間:でも、たしかにお金だけあっても、幸せになれないですよね。
堀江:そうなんですけど、ひろゆきとの対談での勝間さんは、お金があれば幸せ、と言っているように見えましたよ。見えてしまっていた、と言ったほうが正しいのかもしれないけど、そういう感じのキャラになっていました。
西村:堀江さんも昔は、そういうキャラに見られていましたよね?あ、今もそうですか?(笑)
堀江:うん、俺は今でもお金がすべてな感じのキャラに見られていると思う。まぁ、これは俺が何を言っても、もう変わらないと思うよ。
堀江:ひろゆきは今が幸せだったらいいわけでしょ?
西村:僕は僕個人の欲望で物事を判断するんですよ。社会構造とか社会の影響は、たしかにありますけど、結構どうでも良かったりする。自分が幸せになればオッケー。
堀江:だよね。でも、満足している現状から次を目指そうと思ったら、お金が必要なことも多いから稼がないといけないし、お金は大切だよね、と。勝間さんが海外に移住しようと思ったら、ある程度のお金を稼がないといけないわけだし。
西村:・・・・・・僕、ほとんどお金を使わないんで。
堀江:みんな、僕のことを最初から金持ちでずっと金持ちだと思っているんですよね。そんなこと、ちょっと考えれば違うことに気がつくはず。それなのに、僕が貧乏時代の話をしても、誰も聞く耳を持たないわけですよ。実際、月収7万円でも暮らしていたこともある。それを湯浅誠さんとかは、「暮らせない」と断定する。7万円のエコノミーな生活も、楽しもうと思えば楽しめると思うんだよね。無理してダイエットする必要もなくなる(笑)。海外旅行だってできたし、国内旅行も僕がやったようにヒッチハイクをすればできる。だから、お金なんて要らなかった。それでも、十分に美味しいものも食べられるし、生活に不自由するレベルではなかった。現状に至るまでに、物理的な生活レベルは変わったとは思うけれど、僕はお金の絶対額で個人の多幸感の度合いが変わるとは思えない。それは気の持ちようだし、将来に対して何を思っているかにもよるし。
西村:お金を持っていたら幸せだ、というわけではない。
堀江:うん。幸せの尺度の問題。それが僕は大事だと思う。そして、一般的な平均像に幸せを求めてしまうと、勝手に不幸に感じてしまうような気がする。
西村:比較対象を作ってしまう、ということでしょ?
堀江:そう、だからたとえば結婚して子供を作らなきゃいけない、とか、車や家を持ちたい、とか考えだすと不幸を実感してしまう。その辺を勝間さんは、どう思いますか?
勝間:私、以前から「家を買うな」という話をずっと言っているんです。それは、何らかの形で自分の自由度を縛るようなお金の使い方をしてしまうと後で不幸になるからです。
堀江:そういうお金の使い方をしているのは他人と自分を比較するからなんですよ。本来、絶対的であるべき幸せが、相対的なものになっているんです。だから、持ち家は持たなければいけない、持ち家を持つことが成功者あるいは中流の証、みたいな幻想がある。
堀江:右を見たり、左を見たりして、他人と自分を比べてしまう。僕は誰しもが「見なければいい」ですべて解決すると思うんです。「その問題を解決するためにメソッドが必要なのか?」と思うんですよ。結婚なんてしなければいいし、子供も作らなければいい。何でダメなの?
西村:それは、日本に宗教がないからじゃないですかね?価値観がないんですよ。
堀江:価値観がないことが原因なのであれば、どうやって価値観を持たせるのか。
西村:どこかに所属している感覚が重要なタイプと、あまり気にしないタイプがいて、前者はどこかに所属していようがしていまいが楽しめる猫で、後者はどこかに所属してるという感覚がないと楽しいと思えない犬。その差だと思うんですよね。犬は必ず群れにいるけど、猫は好き勝手に行動する。で、犬タイプの人はやっぱどっかに所属していないと幸せを感じないわけですよ。
堀江:世の中、犬タイプが多いんじゃないのかな。
西村:それはわからないですけど、その犬タイプの人が、労働や会社を、”所属する場所”と勘違いしてしまっている。だから、会社から放り出された瞬間に「あーれー」、就職しようと思ってもできずに「あーれー」、というような状態になる。中高大と学校という枠に所属していて、次もどこかに所属しようと就職活動をするんだけど、所属先がなくて、どうしていいかわからない、みたいな。
堀江:なんで、そんなに社員になりたがるんだろう?就職活動をしている人たちが「なかなか社員になれない」とか言うけど、それだったらコンビニでバイトすればいいじゃん。だって、中国人はバイトしてるわけだし。
勝間:どこかに所属していないこと自体が、周りの人からみて非難の対象となってしまうんですよね。
堀江:教育とかで、そういった価値観が植えつけられている。でも、それは何とかしなきゃいけないわけですよね。
西村:うーん・・・。みんな自己評価が高すぎるんですよ、きっと。コンビニに所属することでも幸せを感じることができるはずなのに、「コンビには俺の居場所じゃない」と思っているから、コンビニで働かないわけですよね。でも、現実は「俺はきっとトヨタで働くべき人間だ」と思っていてもトヨタに就職できない。単に自尊心が高すぎて、現実と折り合いがついてない、という話だと思うんですよ。それは個人の問題だと思いますけどね。
西村:そもそも、「ちゃんとした会社の正社員以外は幸せじゃない」と考えること自体が、僕は間違っていると思うんですけど。
勝間:非正社員でも構わないけれど、先が見えないことが不安という話ですよね。
西村:どこの会社でも、潰れる可能性がある時代なんですけどね・・・。
西村:でも、自分が上のほうにいて、「年収600万円の男性のお嫁さんにならなきゃいけない」と思い込んでいる人は難しいと思うんですよね。自分の本来の居場所はもっと下であるということに気づけていないし。
勝間:だから、そういう人たちは結婚できないんですよ。
西村:現実との折り合いが取れていないわけですよね。
堀江:みんな現実の自分を受け入れないといけないよね。高度成長があって、誰しもが、そこそこの生活ができる”中流”になれると思っていたわけだよ。でも、バブルが崩壊して、誰しもが中流になれなくなった。冷静に考えれば中流になれる人数は限られているわけだから、自分がその中に入れないことくらい理解できるはずなのに。
西村:日本の教育というのは、「与えられた中から選ぶ」というものではなく、「与えられたものをこなす」ということしかやっていない。だから、いざ社会に出ても、自分はどういう情報を得るべきで、どういうスキルを磨くべきなのか、の正解を誰も教えてくれない。すると、とりあえず言われたとおり、レジ打ちや商品陳列をして時間が過ぎていってしまうんだと思いますよ。
勝間:そこは、マスメディアの情報だけでなく、ネットや周りの知人たちからの口コミ、あるいは書籍レベルのメディアを使って、コントロールされないようにしていくことが大事だと思います。
西村:みんな、広告媒体に踊らされて、その情報が正しいと思いますよね。
勝間:広告の内容なんて、ポジショントークに決まっているじゃないですか。
西村:そうですよ。雑誌に載っていたりテレビに出ているものは、基本的にほとんどが広告だったりしますし。だけど、掲載されているその情報を、みんな正しいと思い込んでいる。それも教育なのかな?
堀江:それは教育ではなく、思い込みだよ。
勝間:メディアに対する無批判性ですよね。
西村:偉そうな人が話していることを正しいと思い込んでしまうんですよ。学校の先生も同じで、”偉い”といわれているから生徒は正しいと思いこむ。テレビも同じで、偉そうでカッコイイ人が言っていることは正しいと思ってしまう。
勝間:でも、正しいのか間違っているのかを自分の頭で判断できないのは危険ですよね。もちろん、論拠となるデータを用いて伝えられればいいと思うんですけど。
西村:昔は、おばあちゃんと一緒に住んでいる大家族が多かったりして、「テレビとかって嘘だから」とか大人が基準を教えてくれたりしたんですけどね。
西村:本来は自分のなかで絶対的な価値観を持つべきなんですよ。これを食べたら美味しいとか、ゲームをやって楽しい。趣味やって楽しいでもいいし、彼女ができて楽しいでもいい。一つ一つの楽しいことの積み重ねでいいと思うんですよ。他人の評価を気にせずに。
<引用終了>
長々と引用しましたが、簡単に言うと、お金があるからしあわせだとは限らない。お金がないからしあわせになれないわけでもない。
しあわせの基準は本来自分の中にある。他人と自分を比較することは間違っている。高級車に乗っているからとか、旦那の年収が高いからとか、子供がたくさんいるから、とか、そういったことで幸福が測れるわけはない。
とかく、世間からはイロモノ的な見方をされることが多いような3人ですが、考えていることは普通にまともだなとこの本を読んで感じました。
ただ、世の中のおかしなところは正すべきで自分なりのやり方で影響力を使い、社会のあり方にコミットしようと考える(社会批判する)勝間氏に対して、世の中を変えようというようなことは口にせず、あくまで自分のありかたのみを語るひろゆき氏との対比が印象的でした。自分のちからではどうせ世の中なんて変えられない。そんなことにエネルギーを使うくらいなら自分のために使う。そんな姿勢のように思えた。「さめてる」とはこういうことを言うのかもしれない。
<おまけ>冒頭で書いた、そもそもの発端となったひろゆき氏と勝間和代氏とのテレビ対談の経緯についてもっと知りたい方はこちらをご覧ください。
勝間和代 vs 西村ひろゆき テレビ対決 at「デキビジ」
ひろゆきっていうのは、いろんな目で見られてますが、同大学同学部の後輩にあたる人物なので、昔から好きですね。そこの学部に行くこと自体、もうちゃんと働くということを諦めていることを選択しているようなもので(笑)なんとなくよく理解できるんですね。彼のやってること、言ってること、姿勢とか。
先輩にあたる人物に秋元康がいますが、あの人もよくわかるんですね、付属高校あがりの人は、大学入る頃にはもう何か、はじめていた人が多かった。
どちらも学校なんかに頼らず、わが道を行くで突っ走った人で、頼もしい人達のいい例じゃないでしょうか。
しあわせ論、もっと進めていくと、子供の頃から、少年・少女時代からいろんな選択肢があって、好きなことに、しあわせと感じることに、うちこめる環境があること、じゃないでしょうか。
この間、元マラソンランナーの人にインタビューして裏話で聞いたんですが、
今、運動会シーズンでしょ。そういう運動会のために、早く走れるための塾っていうのがあるらしいんですよ。表面上は何等でもいいよとか、そんな順位つけるのおかしいとか、言っておきながら、早く走るための塾なんかが存在してて、そこそこ通っている。
その元マラソンランナーの方は呆れてましたよ。びっくりしましたって。その人も走るのが好きで好きで、でも小学校の時のマラソン大会で2位になった。悔しくて悔しくて中学の陸上部で真剣にやっていったら、日本記録を出すようになってしまった。ボストンマラソンの時は凄い記録出したんですが、記録よりも、本当に気持ちよく走れて楽しかったって。ホントに明るい顔でね。
それで子供二人、生みつつ、今、マタニティウォーキングみたいなことも教えられています。
自分の体験をいかして、楽しく、産後の体重の戻りがいいように効果的に走るしあわせを広めようとされてるんですね。
その長女さんはまだ小さいんですが、お母さんに楽しく教えてもらってるみたいで、綺麗なフォームで走るんですね。
ああ、いいなと…。
まぁ、今の学校環境のことって、凄く疎いんですけど、いい環境もあるんでしょうけど、世のニュースを見ているとやっぱりいまいちなんでしょうね。
あんまし関係ないし、実際見た話ではないんですが、パリの小学校とか、朝、先生が教室を見渡して、その日、服のコーデイネイトがいい娘に、「それはママがしてくれたの、自分でしたの?」から一日の授業が始まるって。そんなこと、毎日やってたら、みんなオシャレテクがつくわけです。日本なら差別だとか、貧富があるからとか文句たらたら出るんでしょうが、別にお金かけてなくったってそのバリの先生はアイデアを評価すると思いますけどね。
なんかね、標準的な価値観からみんな解放される日はないんでしょうかね。
投稿情報: snafkin7 | 2010/10/10 22:31
ひろゆき氏って、世の中なんとかしようとかの発想がないみたいですね。それに比べたら勝間女史の熱いこと。この本の中で「おせっかい」と呼ばれてました。説教好きなタイプなんでしょうかね。「あなた、そんなんでいいんですか!?」みたいな。
ひろゆき氏はひとに説教とかしなさそうですもんね。
「標準的な価値観からみんな解放される日はないんでしょうかね。」
・・・空気読めないとか言ってるうちは無理でしょうねぇ。空気読まないになったらいいんでしょうけど。
個人的には、やっぱり教育がよくないように思いますけどもね。この本の中でも、教育は「洗脳」だと言ってますけど。日本は教育のレベルが高いことは高いと思うし、それも大切なことだとは思うのですが。
学校って、金太郎飴をつくることを目指してる気がして。偏差値みたいのを大切にしますよね。ひとつの基準で一律に順番つけるみたいな。学校というのは抑圧するための制度のような気がします。いい子、わるい子の区別をつけたがりますよね。
そういう抑圧の弊害について、教育者の自覚が全くないんじゃないでしょうか。自覚がないってことは怖いと思います。
でも日本人の学生の学力が落ちてるとかいう話もありますが。それってテストの話なんだよな。
自分で考えることって、難しいことですよね。それって情報量が増えてることと無関係ではないような気がします。情報量が少なかった昔は、それこそ玉子焼きひとつつくるにしても、ネットで調べるとかがなかったので、母親に聞くか、自分であれこれやってみるしかなかった。
今だと、「絶対に失敗しない玉子の焼きのつくりかた」みたいな情報があったりとか。
mugendaiさんのブログにもありましたが、検索に頼ってると、自分の頭で考えることは確かに少なくなるかもしれません。→インターネットでバカになる人、リコウになる人http://bit.ly/d3Kz8B
今の自分をあるがままにそのまま受け入れることとか、自分が今、どう感じているのかについて、自分について掘り下げることとか、自分自身にこだわることって大切なことだと思うのです。
自分の感覚を信じて、そこに戻ること。
自分が今、生きていることを、実感として感じること。実存主義って感じですかね。
KYなんていってると、難しいのでしょうけど。でも底の方まで探っていかないと、表層的なことで時間なんてすぐにたってしまう。限られた時間。自分の寿命というものに無頓着だと、人生なんてあっという間に過ぎ去ってしまうものなのでしょう。
それはそれでいいのかも知れないけれど。
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2010/10/11 00:08
学園ドラマの話をしてもいいですか。
ちょっと自分の中で凄く不思議に思ったことがあるんです。
土曜日の昼にNHKBS2で夏に代々木体育館であったAKBのライブ90分を放送していて、録画して繰り返し見ているんですが、どう見ても最高潮に盛り上がっているのは、「マジスカ学園」っていうAKBドラマ(テレビ東京)の「マジジョテッペンブルース」の8分くらいのパフォーマンスなんですね。
無茶苦茶荒廃した女子校なんですね、マジスカ学園、毎日、血を流しながら、誰がいちばん強いかって、いう場になっている。先生もいてるんですが、このドラマにおいて、先生の印象なんて無で、なんか荒れた教室と荒れた生徒しかいない学園なんですよ。はじめ、なんでこんなこと、AKBにやらすのか、全然意味わからなかったんですよ。喧嘩のシーンも手ひどくくて、毎回、毎回、血だらけなんですよ。
ところが、最終話に近づくと、みなみっていう娘がでてきて(出てきてる時点でリンチで殺されてるんですが)、この娘は喧嘩を卒業しようとして、喧嘩友達ののあつこも喧嘩卒業させようとして、身代わりになって死んでしまう。喧嘩より「マジ」になること、自分に「マジ」になること、を示しながら死んでいく。
このドラマって、12話くらいあったと思うんですが、その1メッセージなんですよ。「マジにならなきゃ、勝てねぇよ」これ、はじめは喧嘩のことなんですが、だんだん、自分の夢に「マジにならなきゃ、勝てねぇよ」ということがわかってくる。
過去、いろんな学園ドラマ、ありましたけど、日本テレビで長く続いた青春シリーズも「あさひが丘の大統領・1979」で終止符をうち、それも先生が主役だったし、金八先生も先生いるし、ごくせんだって、先生はいる。
しかし、秋元康原作のこの「マジスカ学園」は先生、いないも同然なんですね。
こんなに荒れた学校はないでしょうが、生徒から見た学校の心象風景って、結構近いのかなって思ってしまいます。なんかドロドロした権力争いみたいなのがあって、先生は助けてくれないし、生徒間の派閥みたいなので、なんとか光をみつけようとしている。
ドラマの方では、いろんな友情みたいなのが芽ばえてきて、最終的には「マジ」に生きることで、みんなが一つになっていく、みたいなことで、それなりに美しいラインで収斂していくので、マジスカ学園、ヒドイんですけど、現実の学校より血なまぐさくて人間味のある学校だったかなと…
なんか、ドラマ見てる人間はそう思ってて、このライブパフォーマンスの時、異常な盛り上がりを見せるんですよ。ドラマの人物が全員、それぞれの決めぜりふを吐いて、最後に、死んだみなみが出てきて、喧嘩よりも「マジ」に生きていこうぜ、みたいな歌詞を歌う。
盛り上がってるというか、渦巻いている感じで盛り上がってますね。
フツー、アイドルにここまで汚いヨゴレ役やらせないんですが、やらせてウケテル。しかも綺麗事、いっさいなしで、「マジ」に生きろよという1メッセージはしっかり伝わっている。なかなかのものかなと思います。
ひろゆき、ホリエモン、勝間さんが、AKBについて語ってる動画見ましたが、まぁ、無茶苦茶言ってましたね(笑)それもまたよしなんですが、丁寧に見ていくと、そんなことも言えるんですね。
実際、学校には先生いてるんですけど、生徒の心象風景の中には、もはや先生はいないのではないか、みたいな感じ。生きるってことの学校にはなってないんでしょうね。
投稿情報: snafkin7 | 2010/10/11 04:35
ドラマや映画や小説などフィクションの世界では極端な設定を置くことによって、テーマの本質を強調して描き出すという手法はありますね。私の好きなSFなんかもそんな類だと思うのですが。馬鹿馬鹿しい設定でフィクションを強調しつつ比喩的に、風刺的に現在を批判する方法なのかも。マンガも同じかな。
マジスカ学園の話、読んでいて「北斗の拳」とか「魁!男塾」とかのマンガを連想しました。もっともこれらのマンガのターゲットは男子であり、「強くなりたい」という願望をベースにしいているのでマジスカ学園とは違うかもしれません。
暴力的な世界の描写を通じて制作者は何を描きたいのか?「正義とは何か」みたいなことではないでしょうかね。不正に対して正義の鉄槌を下すのは結局は暴力によるしかない。
正義が通らない世界に対する不満を解消するためには暴力的な解決を必要とする。逆に、暴力の行使を正当化するために正義の御旗が必要であるともいえる。
mugendaiさんがドラマ24のジャックバウアーについて書いていましたが(http://bit.ly/dCfyyY )、北斗の拳しかり、ダーティハリーしかり、ダイハードしかり、必殺仕掛人しかり。不正を正すために暴力に訴えるという物語は途絶えることなく繰り返されている。
でも何か、マジスカ学園の話はそれとは違うみたいですね。人間関係における軋轢や対立の比喩、極端化としての暴力でしょうか。そんな世界における「マジ」とは何か。
負けても、曲げない。ということでしょうかね。普通、負けると相手の軍門に降りますから。相手のいいなりになる。子分になる。そうならないためには闘い続けるしかない。
そのためには、自分の中に「芯」が要る。闘い続けるための動機が。それはやはり自分の中の曲げられない正義であり、それこそが「マジ」なのでしょうか。
屈服や服従に対抗するもの。自分の中にある譲れないものを浮き彫りにするための舞台装置としての暴力的世界なのでしょうか。
現実の世界では、妥協したり、すり替えたり、逃げたり、取引に持ち込んだりして、ガチンコの対決は避けるのが普通。それは問題の回避であって、解決ではない。
そしてまた、暴力はダイレクトに自分ごとの問題でもある。他人ごとではない。それこそ、生きるか死ぬかに直接的に関わってくる。先生や社会という他人に頼れない状況では自分でなんとかするしかない。
暴力の直接性は曖昧な解決を許さない。
社会的地位も学校の成績も人間関係も様々な関係性を剥ぎ取った、むきだしの自分という主体性を浮かび上がらせるための舞台設定なのかもしれません。自分と向き合うことのための。
先生の不在もそのための設定?自分たちの問題に対して、大人がなんとかしてくれる訳ではない。自分たちで解決するしかないんだという。
う~む。今回のこのコメントは、snafkin7さんのネタふりに対してはまるで的外れかもしれません。ごめんなさい。どうも、「暴力」とか「正義」とかいうワードは私の暴走につながる隠しスイッチなのかも。
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2010/10/11 06:44
いや、おそらくマンガを連想されたように、下敷きになっているのはマンガの世界かもしれません。
そして、それの女版なのかもしれません。
「社会的地位も学校の成績も人間関係も様々な関係性を剥ぎ取った、むきだしの自分という主体性を浮かび上がらせるための舞台設定なのかもしれません。自分と向き合うことのための。
先生の不在もそのための設定?自分たちの問題に対して、大人がなんとかしてくれる訳ではない。自分たちで解決するしかないんだという」
AKBの世界でよく使われるキーワードは「マジ」ともうひとつ「ガチ」だったりします。
「ガチ」な人間模様を描きたかったということであれば、上のようなことは言い得てますね。
最近、身近な人でパワハラで訴えられている人が何人かいます。みんな若い世代にです。まぁその人もそれ相当のことしているから、そういうことになってるんでしょうが、えっ、ていう人達なんですね。一言の失言で…まぁ、その関係の中にいませんから、よくわからないんですが、こういうことになるとガチに向き合う機会はないですね。
学校でも同じでしょうね。何かとすぐ訴えられる関係にあったりすると、ガチに向き合う機会は少ない。
とすると、先生だけの問題だけでもなくなってきたりして…
怒ってくれないと嘆く若い人がいるようですけど、迂闊に怒れない状況もある。
なんか、そんなこと気にしてると、空気読むとか、そういう変な調和が必要になってくるんでしょうか。
空気読む、って言葉は実は結構サイレント・バイオレンスであったりします。
空気読めない奴は、後でみんなに笑われるし、陰口たたかれるし、訴えてやるぜ、みたいな。
息苦しい「空気」になっているもんだと思います。
投稿情報: snafkin7 | 2010/10/11 08:24
そういえば、永井豪のマンガに「バイオレンス・ジャック」という作品がありました。
法治国家の崩壊した暴力の支配する世界で、「正義らしきもの」のために圧倒的な暴力を振るう存在。その過激な暴力は相手に対してその罪の重さ軽さを判定することなくまた情状酌量といった情け容赦なく死を与えた。
その過激さは、「正義のための暴力」という偽善を暴くような、圧倒的な暴力描写だった。正義のためであれなんであれ暴力というものの残酷さを描いた、突き抜けた作品であったと思います。(あんまりちゃんと読んでいないんですが)
その暴力のカタマリであるようなジャックが、助けた子供にその対価として求めたのが、「よく生きよ」ということでした。
印象的なシーンでした。ある種の衝撃であったかもしれない。当時の私にとって、「よく生きる」ってどういうことなのか。疑問をつきつけられた。答えは与えられていない。自分で考えろということ。
マンガから、こんな風に「考える」ことを要求されたことはなかった。
永井豪という作家は、すごい人だと思います。
私は「よく生きている」だろうか?
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2010/10/11 08:24
snafkin7さん
コメントありがとうございます。
私のひとつ前のコメントとsnafkin7さんのコメントの投稿時刻が同時で、なので私のコメントはsnafkin7さんのを読む前のものです。
さて、パワハラなんて言葉がでてくると何やらキナ臭いというか生々しい話になってきますね。
まあ、私もいろいろと自分をみつめろとか偉そうなことを書いてますが、自分でそれができているのか?
相手の懐まで踏み込んでコミュニケーションをとっているのか?
メディアの情報を鵜呑みにすることなく自分自身で判断し、行動しているのか?
世間で言う一般常識や先入観にとらわれずに主体的に価値判断を下しているのか?
う~む。
そういうことを意識しようとはしている。でも特に難しいのは踏み込んだコミュニケーションと先入観ですね。いや、それ以上に自分をみつめることか。
自分で納得したことだけをするという訳にはなかなかいかない。納得できなくてもやらなきゃいけないことも多々ある。
自分の納得を求めながら仕事をしていると効率は悪い。さっさと流して次に進んだ方が効率がいいと思う。
それは程度の問題かもしれません。僧侶ではないので全ての問題にひとつひとつ自分で答えを出しながら仕事をするなんてことはとてもじゃないができない。
情報のソースをひとつひとつ確認しながら真偽をいちいち判断するような時間もない。
それでも心がけとして、そういうことを意識している。できるだけ、自分の言葉で説明できるようにしようと思っている。誰かの受け売りをそのままオウム返しにするようなことはできるだけ少なくしようと思う。
そしてもうひとつ大切なこと。できるだけ嘘を言わないようにすること。このことで随分と人生は軽くなると私は信じています。
そのことによる支障は甘んじて受けようと。他人に対して正直でいれば、自分に対しても正直になることが容易になるはず。たぶん。
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2010/10/11 18:21
投稿が同時とは驚きました(笑)
バイオレンスという言葉が共通していたので、てっきり、その次のコメントかなと思っていました。
自分ができているかどうか、というのは、まぁ、あまり問いつめない方がいいと思いますけど…
できないと思うんですよね。私もできてないですし、誰も完璧にできないと思いますよ。
心の根っこで、そうしている方の人、くらいでいいんじゃんいでしょうか。
「よく生きてる人」なんて実感もってる人、少ないんじゃないでしょうか。だから「よく生きよ」っていう言葉が効くんでしょうね。
それに良く似た言葉で私は、マジスカ学園の「マジに生きなきゃ、申し訳ねぇだろうが」というセリフは好きですね(笑)
投稿情報: snafkin7 | 2010/10/11 21:49
このコメント欄をあらためて読み返して思ったのですが。
私はこのドラマを見ていませんが、マジスカ学園という暴力的な世界とは、このコメントのテーマであった、空気を読まないという世界ではないでしょうか。
空気を読んで先回りして対立を起こさないようにするという予定調和的な生き方に対する極論的なアンチテーゼではないかと。
それはすなわち、空気なんて読むな!というメッセージかな、と。
そして、ガチで向き合うというのも、踏み込んだコミュニケーションを提示しようとしているのではないかな。肉を切らせて骨を断つというくらい踏み込まないと、お互いの理解は得られない。
「まあまあそう言わんと。」とか、なあなあですませていたのでは、対立は起こさないかもしれないが、ぬるま湯の中では先へ進めない。痛みはないかもしれないが、欲求不満は解決しない。
臭い物にふたをしていては、問題から目をそらしているだけで、問題の先送りでしかない。
馴れ合いの関係からは、未来は描けない。お互いに目をそらしあっている関係では先へ進めないのではないか。
真正面から向き合ってこそ、お互いの違いも見えてくる。お互いの欠点も見えてくる。批評という行為がなければ次のステージには進めない。現状維持しかできない。弁証法的なアップグレードが進まない。
対立を乗り越えてこそ、ひとつ先へ進むことができる。対立を避けることは解決ではない。
「空気を読む」とはまさに、対立を避けることですね。
マジスカ学園とは、対立を通じて、その先へ進むという弁証法的運動(アウフヘーベン:止揚)を描いたものかもしれません。
違ってたら笑って下さい。
マジで自分と向き合おう。ガチで対立しよう。
空気読むな。対立を避けるな。それがメッセージだとすれば、それはKYという時代に対するアンチテーゼに他ならない。
そしてそれに対してファンが熱狂で応えたとするならば、パンドラの箱の底には希望という光が残っていたということなのかもしれません。
あーあ。またなんか、大風呂敷を広げちゃったような気がする。ホラフキーに改名しようかな。
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2010/10/15 02:38
いやいや、不思議に思ってたことを人に投げてみるものですね。
“マジで自分と向き合おう。ガチで対立しよう”
そこに、秋元康がいれば、うなづいて、まさにそれがコンセプトと言うんじゃないですかね。
ここに登場する人物たちは、いわゆる不良ですが、スレテナイといいますか、歪んでないんですよ。
AKBの場合は恋愛禁止ですから、教師との恋、彼氏との恋、が描かれていないのはその流れなのかもしれませんが、今、男描いても、情けないだけですから、逆にいい方向に動いたんじゃないですかね。
そして、決定打みたいなこと言いますと、このドラマには母性的なことが一切描かれていない。主人公の前田敦子の家庭も父子家庭で、そのお父さんが凄く気の弱いお父さんで、娘の顔色ばっかりうかがっている。母親との関係に失敗した娘たちが暴走している感じなんですね。
こういう場所(あまり人目につかない場所)なんで、書きますが、大阪の幼児2人をマンションに閉じこめて、餓死させてしまった事件があったじゃないですか、事件としては本当に胸が痛む可愛そうな事件なんですが、あの子供たちの父親の方が、私の仕事の相棒の連れなんです。夫婦関係的には夫婦のことですから、夫婦しかわからない、いろんなことがあったんだと思いますが、もっと向き合ってたら…と凄く後悔しているらしいです。なんか話を聞いてますと、彼女ももともといろんな問題があるらしいですが、最終的には、夫からも捨てられたみたいなところがあって、あの事件、子供たちがマンションの一室に捨てられたように見えますが、実際そうなんですが、実は彼女自身が、家族からも夫からも捨てられていたような背景があるんですね。ニュース的には、風俗嬢であったとか、男遊びに走ってたとか、そういうことで、ヒドイ母親だということでロックされるんですけど、彼女自身に誰もマジに向き合ってくれなく、ガチで言葉を発してくれなかった寂しい状況があったみたいです。子供は本当に可愛そうですが、あったかいものからも捨てられた彼女はあったかいものを守れなかったというような図式も見えるんですね。あったかいものを生んだのは彼女の最後の希望だったんだと思います。しあわせになれるかもしれない最後の希望だったと思います。だから、彼女がブログで子供のことを愛情たっぷりに書いてることも本気ですし、公園で面倒くさそうに子供を相手してる彼女も本当の姿だと思います。
話が少しズレましたが、突っ込んで突っ込んで今の世の中を見ますと、「空気読めよ」と言っている連中も心の奥底では「空気なんか読みたくないよ」ということもあって、「空気読めよ」と言っている自分が嫌なんじゃないでしょうかね。もしも、マジでガチで、受け止めてくれる場所があるならば、そうしたいけど、到底できるわけないから、口では「空気読めよ」と言っている。
なので、あれば、この世は、あの世でもなく、原田知世でもなく(笑)まだまだ捨てたもんじゃない。
だから、ホラフキーではない。ドッとええこと言うスキーですよ、ドストエフスキー、ちょっと遠いですか、いやマジに…笑
しあわせは歩いてこない♪〜だから歩いていくんだよ♪〜足の速いチーターの曲にこういうのありましたけど、今、思い返すと、深い言葉ですね。
365歩のマーチですか、
私たちはどこに歩いていくんでしょうね。
みたいな綺麗な終わり方で…いいバトン渡せたような気がします。
投稿情報: snafkin7 | 2010/10/15 04:57
備忘録がわりに…
「マジすか学園」のマジジョテッペンブルースについて、真剣に語られたのは、ここがネットで初めてじゃないかと思います。
その後、SKE48とNMB48の神戸ライブでも、この曲がクライマックス曲で、NMB48においては、初めて公開で歌ったのが、マジジョテッペンブルースで、突発的とはいえ、ここで語られたのは凄く意味のあることだったと思います。
インターネットのカオスの片隅でパイこねのように語られた生身の対話、時間をおいてまた、誰かが目にすることを願って…
投稿情報: snafkin7 | 2010/10/31 20:54
「マジとガチ」。
このコメント欄での対話のテーマは、これだったのでしょうか。
「自分」と「他人」とに、真剣に向き合う。本気で向き合う。
ぬるま湯につかっていたんでは、ダメなんだ。
「自分」のことを考えると、「他人」との関係を抜きにはできない。「他人」との関係という点については、まだ充分に議論していないような気がします。
「不安な時代」、「目指すべき未来が見えない時代」にあって、これから先を考える上では、「他人との関係」というテーマははずせない。目指すべき未来とは、現在にあってはテクノロジーの話というよりは目指すべき社会と同義であるように思います。人間関係のこれから。
それは、コミュニケーション論として、このブログのテーマでもあります。このブログのタイトルは「ネットの未来記」。特に、その社会的影響の側面に関心をもっています。つながりたいという気持ち。
ネットは、「他人との関係」のごく一部でしかないけれど。いやでも今の若い世代にとってはそうでもないのかもしれない。
PCやケータイというデバイスの進化によって、「他人との関係」の広がりは大きく広がり、接触頻度の点でも24時間常時接続の状態に近づき、コミュニケーションの量は増えているのかもしれないが、しかしその一方、空気を読んで行動し、ガチでの対立を避けているように、密度の点では薄くなっているような気がしています。
関係を求めながらも避けている。みたいな。
そんな風潮を反映してか、ブログのコメント欄も、ごく短い言葉が連なっている状態が一般的な中で、今回のような濃ゆいコメントの応酬は珍しいものであったかもしれませんね。
このやりとりは、私にとって、いろいろ考える機会となりました。普段あまり考えない深さまでおりられた気がします。
私が学生の頃に印象的だった言葉があります。
「さあ、生きることを始めよう」
ちゃんと生きていなかったら、生きていないも同然。
回帰するのですね。私はこのやりとりを通じて、振り出しに戻ったような気がします。もう一度いいます。
さあ、生きることを始めよう
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2010/11/02 01:43
備忘録2
情報過多なんだと思います。
Twitterとかで高校生とか大学生をフォローしていると、いっぱい本読んで、ネットでエッセンス読んで、凄い情報量持ってるんだけど、すぐ批評にまわってしまう。
これはツライと思います。
一部上場企業の社史を2冊ほどつくったことがありますが、会社を大きく動かしている人ってたいがいハグレモノで、偶然性がいい方向に重なったことが多いんですね。世に出る社史の裏側に別の一冊つくれるくらい、裏話が多いほど、凄い会社になってることって多いのではないかと思います。
東南アジアで凄い人脈をつくった人物は現地語を完全マスターし、最後には映画の地獄の黙示録のように、現地に根をはって、会社には戻らなかった。しかし、彼の考えたプロジェクトが未だに会社のドル箱となっている。
これは実話です。
ネットはいいことがいっぱいありますが、弊害もいっぱいあるかなと…
私は凄く字がきたないです。自分で見るのも嫌なくらいきたないです。ですから、ワープロやネットがなかったら、モノ書く仕事をしてなかったと思います。そう思うとIT全般に感謝しまくりなんですけど、一長一短という言葉が凄く気になりだしてるこの頃です。
投稿情報: snafkin7 | 2010/11/04 19:22
高校生や大学生が、「いっぱい本読んで、ネットでエッセンス読んで、凄い情報量持ってるんだけど、すぐ批評にまわってしまう。」
なるほど。昔から本を読めとはよく言われる気がします。本を読むなと言われた記憶はない。「書を捨て街にでよう」という本があることは知識としてはあるけれど、その本を読んだことはない。
でも、本ばかり読んで頭でっかちになるな、と言われたことはある。これは考えてばかりでいないで行動しろ、という意味だったので、本を読むなという意味ではない。
さて、パナソニック創業者の松下幸之助、ソニー創業者の井深大と盛田昭夫、ホンダ創業者の本田宗一郎、或いはアメリカではMicrosoft創業者のビル・ゲイツ、Apple創業者のスティーブ・ジョブズ、Google創業者のセルゲイ・ブリンとラリー・ペイジ。実際のところは知らないが、これらの創業者はあまり読書家・勉強家のイメージはない。
他人の意見に頼らず、自らの信念を頼りに事業を起こした人たち。そんなイメージがあります。
変革者、イノベーターといった大きなことを成す人たちは、既存の情報に頼らない。そんな気がする。
或いは自分の関心領域に特化しているのかもしれない。
情報が過多である。それは間違いないと思います。過去に例がないスピードで増えているので、この情報過多に対処する上で歴史に学ぶことはできない。
個人レベルでも社会レベルでも、この情報過多への対処は新しいやり方を探すしかない。先へ先へと進むしかない。
情報量の意味ではかつてない新しい時代が始まっている今、既存のルールを守ることよりも、新しいルールをつくることが必要なのだろう。そんな風に私は思いますね。
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2010/11/06 15:22