2010年9月28日 夢幻∞大のドリーミングメディア/mugendai
ダイヤモンド・オンラインで「iPad、グーグル、ツイッターでヒトは本当に馬鹿になりつつあるのか~米国の著名テクノロジー思想家ニコラス・カーが語る “ネット脳”の恐ろしさ」というやたらに長いタイトルのインタビュー記事を読んだ。何でも、ニコラス・カーという人が『ネット・バカ インターネットがわ たしたちの脳にしていること』(青土社刊)という本を書いたという。このおどろおどろしいタイトルにだまされてはいけない。結局、結論は一番最後の、
「記憶しなければ、考えることができないから、物事を頭に入れないとだめだ。何でも検索エンジンで見つけることはできない。
考えることが減れば、それだけ検索に頼ることになり、検索に頼れば頼るほど、記憶しなくなる。そうするといつか頭が空(カラ)になる。問題は、自分の頭の 中で物事を関連させて考えることをしないと、ますます外部にあるコンピュータベースに、関連することを頼ることになる。われわれの思考の豊かさは自分の脳 の中にあるつながりから来るのであって、脳の外に存在するネットワークにあるつながりから来るのではない。」(iPad、グーグル、ツイッターでヒトは本 当に馬鹿になりつつあるのか~米国の著名テクノロジー思想家ニコラス・カーが語る“ネット脳”の恐ろしさ)<引用終了>
via mugendai.bloggers-network283.com
この本は読んでいませんが、上記のブログでリンクされている著者のインタビューは読みました。インタビューの内容については私は同意します。
ネットをみることと、読書とはそもそも違う体験である。ネットを否定するものではないが、読書はそれとは違う意味で大切。その通りだと思う。読書をおろそかにしてはいけない。
ではネットをみることと読書との違いは何か?どちらも私にとっては外部の記憶であることには変わりはない。むしろピンポイントに検索できるという点では、ネットに分がある。読書とは時間がかかる行為である。それはプロセスを要求するということ。
しかし、情報を伝えるための媒体として考えるならば、ネットが提供するものは断片的な知識であり、読書が伝えるものはもっと大きな全体的な概念であり知恵である。ものの考え方、概念、視点というものを伝えるためには読書の方が適している。ネットは断片的である。
それはひとつには単純にボリュームの問題である。ネットで100ページのテキストを見ようとは思わない。それはネットの習慣にあわない。
ネットは便利だが、読書もまた大切だというのが率直な思いだ。まとまったものの見方・考え方を学ぶためには、読書という忍耐が必要だと思う。
ネットは、ピンポイントな知識を得るには優れた手段だが、まとまった概念、ものの見方といった大きな考え方、思想といったものを伝えるのにはネットはあまり適していないと思う。
それは、ネットではあんまり長い文章を読みたくないという受け手側の習慣に過ぎないのかもしれないけれど。
読書というスタイルで、じっくりと時間をかけて書き手と向き合うという行為は重要だと私は思う。ただしそれはネットの利便性を否定するものではない。
この件に関しては、下記のサイトがとても面白かった。極めて示唆に富んでいる。今という時代の考え方を反映しているものだと思う。いくつかの発言はとてもとても刺激的である。
■グーグルで人は馬鹿になるのか 検索に頼れば頼るほど記憶しなくなる 記憶しないと思考できない
自分でオリジナルに思考するためには、記憶は必要だと思う。自分の中に、ネタを持っていないと、考えることはできない。
「問題は、自分の頭の中で物事を関連させて考えることをしないと、ますます外部にあるコンピュータベースに、関連することを頼ることになる。われわれの思考の豊かさは自分の脳の中にあるつながりから来るのであって、脳の外に存在するネットワークにあるつながりから来るのではない。」
そのとおり。
この問題は早急に答えを求める今の時代のせっかちさ、こらえ性のなさとも深くつながっているように思う。
外部記憶については、私も過去にこんなことを書いている。
「われわれの思考の豊かさは自分の脳の中にあるつながりから来るのであって、脳の外に存在するネットワークにあるつながりから来るのではない。」
脳の中にある言葉や概念、それらの相互の関係やつながりが思考の豊かさである。その考えには同意します。
経験値が増えるということは、ひとつのシグナルから読み取れる意味が増えるということ。シグナルの解釈の幅が広がるということ。予想・予測の精度が上がるということ。
そのために生存に関する将来のリスクに備えることが可能になり、そのリスクを減少させることができること。
しかし一方で、脳の外にあるネットワークとしてのインターネットは、その情報量を爆発的に増やしていると同時に、その情報間のつながりも増やしている。リンクとして。或いは検索という行為を通じて。
リンクも人の手を介したリンク以外にも、このブログにも貼り付けてある「zenback」→のような、ブログパーツによって機械的につくられるリンクもある。(この「zenback」によって全く知らない人のブログからのアクセスが実際にあったりします。まだ数は少ないですが)
とにかく脳外ネットワークはその量とつながりを日々豊かにしている。それはネットワークが賢くなっていることを意味しているのではないかと考えます。
ネットワークが賢くなることによって、次の変化が何か生まれるのではないかと私は思う。一体、それはどんな変化なのか、自分なりに考えてみたい。それはこのブログのメインテーマでもあります。
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2010/10/10 04:29