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2010/09/23

コメント

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snafkin7

読ませていただきました。
コメントのやりとりから、ひとつのブログ記事が生まれる、面白いですね。

今の日本はホント自由なんですが、いろいろ重い問題を考える場合にも個人に負担がかかってくるようなところがあって、若い人が将来をロングで見る時、かなり暗い風景に見えるんじゃないでしょうか。

大学の一年生でも、こんな時代だから4年間遊んでる場合じゃない、何をしたら就職に有利ですか?みたいなことを訊いてくるらしいですし、
キャパ嬢でも、みんながちやほやしてくれる時期はもう1〜2年、その後のことを考えたら不安で不安でと実際に相談を受けたことがある(笑)
若手社員でも、うちの会社、将来大丈夫なんでしょうか?と先の先の会社の安定性を気にしてる。

わかるところもあるんですが、そういう気分でいると、出会えるものにも出会えないですし、できることもできないですし、チャンスとかうそのような偶然性とかまで逃してしまうような気がします。

先のことを考えるのも大事ですが、鍛冶さんのおっしゃるように、もう少しショートに先をみつめて、毎日、毎日のしあわせっていうものを大事にする方が、
きっと出会えるものに出会え、できることができ、ひょっとしたら大きなチャンスが偶然目の前にあらわれるかもしれず、その方が逆に将来にとっていいことがはじまるかもしれないわけですね。

スポーツ選手がよくいう、一試合一試合、一番一番、大事にしていくだけです、っていうあの感覚はよくわかるような気がします。彼らはいつもプレッシャーととなり合わせでかなりキツイ精神状態だと思います。彼らがいきついたのは一試合一試合大事にしていけば、最終的にはいい結果が残せるという大きな経験値をシンプルな言葉で表現してるのだと思います。

私のAKB好きは社内でも有名ですが(爆)、この間、若い女子社員に
「この間、まゆゆがTVで歌っていて、ギュッとしてよ!!というセリフのところで、TVの前で失神してしまった」話をすると返ってきた言葉が
「うらやましい、私も失神できるくらい好きな人、みつけなきゃ」なんですね。
こんな話で、うらやましい!!って言葉が返ってくるとは思わなかったわけです。

糸井重里が昔言ってたんですが、洋式トイレ座る時に、逆向きに座るとか、横向きに座るとか、45度角度で座るだけでも、気分が変わって、楽しいじゃないですか。電車のつり革でもひっぱるだけじゃなく、上に押し上げてみるとか。電車に乗る時でも、今日は右足から入ろう、明日は左足から入ろう、とか少しの工夫で、毎日ってとても楽しくなるんだぜ〜みたいな。
お風呂もしかり。洗う順番を気分によって変えてみるとか。
そういうことって、子供の時には考えていたりするものですけど、大人になると自分から毎日を楽しくない方にやっていたりする。

長くなりましたが、昔、わたせせいぞうのハートカクテルの漫画に「シアワセ?」しかしゃべらない九官鳥の話がありました。シアワセの尺度がはじめわからなかった女性は九官鳥に「シアワセ?」って言われるために苛立つわけですが、ある男性と知り合い、小さなシアワセを幸せと実感できるようになって、その女性は九官鳥の「シアワセ?」に初めて微笑むストーリー。

とにかく今、みんな何かに苛立っていますよね。

鍛冶 哲也

あははは。糸井重里、オモシロい!!
トイレに座るところから生活を改革しろと!いや、変えるべきは生活ではなくて頭の方ですね。頭というか、考え方。それを変えるのは、実は考えることによってではなくてトイレに座るという行動から変える。う~む。わかりやすい。そして、その通りだと思います。

マンネリからは何も生まれない。楽しく生き
るためには試行錯誤をしなければいけない。それは生きることに対する真剣さを求める言葉であるように思えます。日常に流されて生きていては幸せになんてなれるはずもない。

逆に言えば、そういう試行錯誤を日々の生活の中で試すことで、生きることの主体性を取り戻すことにもなる。

今という時代は、他人の言葉に振り回されすぎなのではないでしょうか。「勝ち組」「負け組み」とか「負け犬」とか、そんな言葉には、私は不愉快な感情を覚えます。基準を自分の外においてはいけない。自分が感じていることをもっと信じればいいのに。

他人の言葉を無批判に受け入れすぎているような気がします。それは考えることの放棄であり、主体性の放棄であり自分に対する無責任化でもある。それは自分を失うことにつながる。

マスコミを疑え。他人の言葉を疑え。そして自分自身の身体で確かめろ。

自分でつかみとったものでなければ、頭で覚えた知識なんて役に立ちませんよね。

もっと泥臭く生きていなければ、体験というものが身についていかない気がします。ある体験が自分にとってどういう意味があるのか。自分の生にどんな影響を与えるのか。いちいち解釈して消化していかなければ、日々なんてたやすく流れていってしまう。

他人任せで、他人の価値観にあわせて生きていたんでは、幸せなんて感じられるはずもない。もっと自分を深く掘らなければ。ちゃんと地に足をつけて生きていかなければ。

それにしてもまた奥の深いコメントをいただきましてありがとうございます。snafkin7さま。

snafkin7

「百式」100SHIKIって素晴らしいブログがありますが、あのブログもはじめは読者がほとんどいなかったらしいです。はじめはアクセスをちらちら意識して、気にしてた。
途中で、読者は一人でもいい、自分が紹介したいことを紹介するんだとふっきれて、コツコツ続けているうちに今のようにYahoo!ニュースにものぼるものになった。

他人から見て、どう見えるかを意識することは大事ですが、他人を意識しすぎることはあまりいい方向にいかないような気がします。

今回のセッションは自分自身にもタメになりました。今後、より意識化することができます。

ありがとうございました。

鍛冶 哲也

いえいえいえ。こちらこそありがとうございます。考えるヒントをたくさんいただきました。

他人の視線を意識することは確かに大切ですが、その前にまず、自分が何をしたいのか。そこをしっかり確立することが先ではないのか。そんな風に思います。

空気読む前にまず、自分がどうしたいのか自分でわかっていないと。

自分のことを自分でわかる前に、空気読んで他人にあわせてしまうと、きっと自分がわからなくなる。そんな気がします。

鍛冶 哲也

snafkin7さんのブログやコメントのやり取りを通して考えるのが、今という時代の不毛さというか、不完全燃焼感みたいなもの。そんな時代の空気。

マニュアル化され、教えられることに慣れすぎてしまったのか。与えられた情報を鵜呑みにすることが当たり前になりすぎたせいなのか。自分自身の直接的な体験情報の量を、伝聞による間接的体験の情報量が上回ったためなのか。

うまく言えませんが、主体性を取り戻すというか、身体性を取り戻すというか。言葉ではなく感覚によって生きるというか。そんなことが必要じゃないか。

snafkin7さんのコメントにあった、将来に対する不安を抱える若者達についても、他者への依存の強さを感じます。

キャバ嬢いわく、若くなければお客がつかない?それは客観的事実なのか、伝聞なのか。歳をとっても魅力を振りまいている人はいる。それどころか歳をとるに従って魅力を増す人だっている。歳をとることを恐れていては、なんにも始まらない。

会社の将来が不安?それは当たり前のこととして飲み込まなければ。永遠に続くものなんてない。そして会社がつぶれようが国がつぶれようが、自分は生きていかなければ。世界は変わるもの。環境が変わったらその時はその時。泥水をすすっても生きなければならないかもしれない。

生きることの覚悟。

私はそんな偉そうなことをいう資格なんて全然ありませんが、テレビとかみてると、明治時代の人たちなど、時代に振り回されて成功と失敗を繰り返した人たちの話があったりして。

彼らのなりふり構わない行動振りには驚かされます。すごい行動力です。とんでもないジャンプを何度もやっていたりする。自分の力だけを頼りに。
 
そんな昔の人たちの生命力には憧れます。彼らの大胆さに。会社の将来なんて不安がってる場合じゃない。最終的に頼れるのは自分しかいない。学校や会社じゃない。
 
その意味では将来への不安を口にする人たちは周囲への依存が強いのでは?
 
もっと自分を中心にすえなくては。他人ではなく。自分に自信をもつというか。他人を頼るのではなく、自分を信じるというか。
 
失うことを恐れていても始まらない。
 
安全なゾーンに隠れていたって楽しいことはつかめない。肉を切らせて骨を断つというくらいまで踏み込まなければ、気持ちよさなんて味わえないと思う。
 
他人とのコミュニケーションだって、踏み込まなければ。
 
そういう意味では、今時は踏み込みが浅いと感じることが多い。リスクを取らずに得られるものはない。
 
失うことを恐れないようになるためには、余計なものを全部剥ぎ取ったあとに残る自分。まっさらな素の自分と向き合うことが必要だと思う。
 
勝負を避けていては何も得られない。
 
あ。なんだかとっても偉そうなことばかり書いてしまった。でも軟弱な時代に渇をいれることだってきっと必要。
 
勇気を振り絞って強気な発言をしよう。そうしよう。
  
糸井さんの言うとおり、自分を変えたいと思うなら、今すぐ変えればいいんだ。まずはトイレの座り方から。
 
だって、他人を変えることから比べれば、自分を変えることなんて簡単だから。自分なんて簡単に変えられる。
 
ただし、いい方にばかり変わるとは限らない。だから変わり続けるんだ。完璧にいくことなんてないんだから、ちょっとずつ変わりながら試し続けるんだ。だからこそ、生きることとは試行錯誤の連続であるべきなんだ。

snafkin7

Yes!

鍛冶 哲也

ふと思ったんですが、若い頃の自分の写真をみると気恥ずかしく感じることがあります。
なんて馬鹿だったんだろう。ばかげた格好をしてたりして。

それはその当時の自分が、自分の思い込みで生きていたからなんだと思います。周りから見てどう見えるかなんて気にしちゃいなかった。自分がいいと思った格好をしていた。それは海外のミュージシャンの真似だったりするわけですが。

思い込みが強かった訳で、今から思うと周囲から相当ういていたなーと、そんな感じで今、気恥ずかしく感じるのかな。でも、みんなそんなもんじゃないのかなーとか思うのですが。

若い頃は相当に自意識過剰で、自分と周りとのギャップを強く感じていた。周りに溶け込みたいという思いと、群れに混じるのは絶対に嫌だという思いとの間で揺れ動き、引き裂かれていた。どんぐりの背比べみたいな似たり寄ったりの同世代の集団の中で、自分らしさを主張したいと思っていた。劣等感と優越感の間を激しく行ったり来たりしていた。他人との距離感がうまくつかめていなかったのだと思う。思い込みの強さだけは一流だった。

どんなにあがいたって、所詮、自分は自分。そう、開き直るまでの揺れ動いていた時期だった。

今時の若者はどうなんだろう?
ふとそんなことを思ったのでした。
 

snafkin7

今時の若者の本当のことはわかりませんが
以前は、心の垣根の高さがあって
葛藤、分裂、克服みたいなことも含めて
「引き裂かれた自己」R.D.レイン
みたいなことであれば
今は、心の垣根が低くて
飲み込まれる、フリーズ、解凍みたいな感じで
解凍場所が、
「ひきこもる」という行為な感じですかね。
それが長期か短期か数時間は別にして…
「引き裂かれた自己」を書いた
精神病学者の天才、R.D.レインでさえ
社会の方が病気だと言い放って
若くして急に学会を去り
精神病患者と結婚して(一緒になって)
森にひきこもったときいています。

社会の方が動く可能性のような希望があれば、まだ立ち向かっていけるのでしょうけど、動くように見えない社会と対峙した時、ひきこもるしかないというのもわかります。「休日はひきこもっていたよ」とかはフツーの日常会話で出てきます。

しかし、この問題は難しいですね。

mugendai

幸せの語源について考えたことがあります。
幸せとは、もともと「仕合せ」のこと。つまり、めぐり合わせのことなんです。だから、良い仕合せもあれば、悪い仕合せがあった。たまたま、巡り会わせが悪かっただけのこと、昔の人はそう考えていた。今の現代人は、それを幸せとはこういうものと決め付けている。
また、happyという言葉もhappningと同根。たまたま仕合せになっても、明日のことなどわからない。幸福も不幸も同等と考えていたんです。明日は明日の風が吹く、それでいいんです。

ところで、いつの間にか、「おかりえちゃん」が「おかえりちゃん」になっている。これも何か意味があるのですか?

鍛冶 哲也

snafkin7さま
 
「引き裂かれた自己」。そこ来ますか。読んだことはありませんがタイトルは知っています。

世の中を変えていけるという希望がみえない社会。一見、自由な様でいて、実は目に見えない網が張り巡らされているソフトな管理社会。

学生運動が盛んだった時代と比べて、戦うべき相手の姿が見えない時代。
 
現状に対する不満はあるけれども、それに対抗して目指すべき未来が描けない。失われた未来。

未来に対する希望の喪失についてかつてこんなブログを書いています。「希望という名の未来」http://denkiami.bloggers-network283.com/2009/01/%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E5%90%8D%E3%81%AE%E6%9C%AA%E6%9D%A5.html

方向性を見失った現代社会において、目指すべき未来を創りだすためにはどうすればいいのか。

それも独りよがりな理想ではなく、みんなが共感できるようなものとしての明るい未来像。
 
本当に難しい問題ですね。
 
Wish you were here.

手塚治虫がここにいれば。いや、他人をあてにするのではなく、自分自身で考え抜かなければいけないことなのでしょう。
 
しかし、重い。
 

鍛冶 哲也

どこから手をつけてよいかわからない時。問題に取り組む手がかりが見つからない時。そんな時には、シンプルにいくしかない。余計なことを考えずに、先入観を持たずに問題に向き合うしか。まずは、John Lennonの"IMAGINE"のあたりからかな。

鍛冶 哲也

mugendaiさま

あらあら「おかえりちゃん」。
単に私の間違いです。おかえりだと思い込んでました。

思い込みというものは怖いものです。時にそれは可笑しさを生み出したりもします。
 
「明日のことなどわからない。幸福も不幸も同等。」そうですね。昔の人達は大雨や日照りなどの自然現象や流行病など、人の力を超えたものに大きく生活を左右されていたのでしょう。
 
それこそ生きるか死ぬかの境目は極身近なところにあった。生死を分けるのは外部的な要因が大きかった。
 
そんな条件の中で、人間にできることといったら、生存の可能性を少しでも高めるために最大の努力をするといった程度のことでしかない。
 
ダメもとで行動するというのがデフォルトの生き方だったのかもしれません。うまくいくかどうかなんてやってみなけりゃわからない。
 
自然の脅威に対して、人間の力はあまりに微力であり、無力。
 
第一、明日、何が起こるかなんてわからない。精度の高い天気予報だってないし。台風の接近中を知らせる衛星写真だってないし。

 
現代人は科学の力によって、自然の驚異に対する抵抗力を身につけ、コントロールし、生活を安定させることを実現してきたけれど。
 
現代人はあまりにも飼いならされてしまっているのかもしれません。
 
冷房や暖房によって気温の変化を最小限にコントロールされた人工的な環境の中で。

snafkin7

これ以上、続けるとギネスに挑戦のようになってくるんですが(笑)続けます。

いろいろ議論させてもらったんですが、もし本当に“いま”のことを語ろうとすると、翼自ブログにも書きましたが、渡辺麻友の言葉を引用したくなります。

彼女は週刊ダイヤモンドのインタビューで「AKB48は女子校みたいなところで、本当に青春してますね」と語っています。

フツーならスッと通りすぎるような言葉なんですが、ここのコメント欄でいろいろやりとりをさせてもらった後なので、この言葉が、あー、あー、あ、そういうことかと至極ひっかかりました。

AKB48の魅力は多々ありますが、リアル社会の内側にリアル・バーチャルといいいますか、バーチャル・リアルな社会をつくっていて、リアル社会は、中国船長を釈放したり、FDを改ざんしたり、とんでもない社会なんですが、そうではない理想的なリアル・バーチャルといいますか、バーチャル・リアルな社会の中で彼女らは元気に生きてる。ようにしているところがAKB48のなかなか沈まないところなのかと思います。

渡辺麻友は劇場が原点と言ってますが、実はネ申(ねもうす)TVというところで、凄い体験をいっぱいしている。

オーストラリアまで行って、バンジージャンプの後、スカイダイビングをやらされたり、蛇やワニと格闘?したり、インターナショナルスクールでマジックやったり、フランスのパリ中を歩いて、公演に来てくれるよう街頭で呼びこんだり、イルカの調教、アニメ制作、富士山登頂など、フツーの学校ではやらない、体験をいっぱいやっている。

富士山なんかは私5合目までしか行ってないのですが、このTVを見ていると、荒れた天候の中、頂上まで行ってその風景を見せてくれるわけです。

それこそ、身体性の回復とか生死にかかわったチャレンジをいっぱいやってる(笑)

ここに結構、ヒントがありますよね。

リアル社会がどうしようもないものならば、その内側に理想的なリアル・バーチャルかバーチャル・リアルな社会をつくればいい。内側である限り、ひきこもりなのかもしれませんが、リアル社会と摩擦ばっかりおこしてフリーズするよりは、内側の世界で生産性のあることをやっていた方がいいというか、面白い。

結局は、私自身いろいろ抵抗はあるんですが、ソーシャルネットワークというのも、その一つなのかなと思うと、なんだか納得いくんですね。そういう大きなニーズから今そういわれているんであれば、ありかなと。

AKB48の場合は、バシッと言ってしまえば、彼女ら自身がソーシャルネットワークなんですね。

じゃあ、リアルな社会はほっとくのかよと突っ込まれると困るのですけど、リアル・バーチャル、バーチャル・リアルな社会でシミュレーションして、何かいかせることがあれば、リアルを変えていく。そういう始め方もあるわけですね。

特捜のエースよりAKB48のエースの方が確実にいいこと、やってるわけですから(爆)そういう見方もあるなと…

渡辺麻友なんか、とんでもない美少女でありながら2次元しか興味がないと言い放っていて、これはもう3次元(リアル)の拒絶ですよね。

なんで、16歳にいろいろ教えられなきゃダメなんだよと思いますが(笑)教えられています。

こと、“いま”の認識においては、若い人の方が冷静に見ていることがあると思います。

鍛冶 哲也

「こと、“いま”の認識においては、若い人の方が冷静に見ていることがあると思います。」おっしゃる通りだと思います。

ソーシャルもしかり、デバイスもしかり。今の時代は、本当に、これまでの人類史上にかつてない程、変化のスピードが速い。

そのスピードについていっている人とついていけない人との間のギャップがものすごく広がっている気がします。

同じ時代を生きていながら、若者と老人とでは全く違う世界を生きているのではないでしょうか。若者には若者のリアルがある。20年前から変わらない生活をしている年寄りもいる。その差は激しく大きい。ジェネレーションギャップの大きさは人類史上最大だと思う。違う世界に生きている。

リアリティは全く違うと思います。社会がバラけている。共通性がとても小さい時代。共感、共有のできる範囲が狭くなっているのかもしれません。

明るい未来が描けないのは、広く共感が築けないからかも。

古い人は過去に郷愁を覚える。過去に向かって生きている。その意味で、未来に一番近いのは若い人たちでしょう。好きなように創っていったらいい。

ただ、その点で心配なのは、空気読みすぎな傾向。新しい未来を創るのは、周りのことなど意に介さず、自分のやりたいように暴走するような、自己中心な人物。周りからはめられる規格を平気ではみ出していくような豪快さ。規格外。空気なんて読まない。新しい時代を築くのは、例えばビル・ゲイツ、例えばスティーブ・ジョブズ、例えばセルゲイ・ブリンのような他人の意見を聞かない人たち。

そして、そんな風にわが道をゆくために必要なのは、自分の感覚を信じること。生きることを実感して生きること。「身体性の回復とか生死にかかわったチャレンジ」。そのとおり。

死ぬかと思うような体験は、生きていることを強く実感できる瞬間だと思います。そんな瞬間にこそ、「生きたい」という強い思いが内側から湧き出す時。それは他人の視線がどうとか空気読むとかではなく、自分が全ての瞬間。生きるか死ぬかの瞬間。必死のあがき。

それは生々しく生きているという実感ではないでしょうか。ところがそんな風な感覚をもつことは、今の時代、なかなかない。必死で死に物狂いで生きるという実感。

生きるということの真剣さ。生々しさ。

今の時代は流されるように生きることが簡単。ラクチン。流されることは簡単だから。

それだからこそ、真剣に生きることは難しく、そして重要なのだと。それは、今、この一瞬を大切にすることなのだと思います。明日はないかもしれない。ないかもしれない明日のことを心配しても仕方ない。そんな暇があったら、今この一瞬に集中しろ。今この瞬間から最大の快楽を引き出すことを考えろ。

今、何が楽しいのか、真剣に考えるべき。快楽を追求することは決して間違いではない。ただし、それを必死に、真剣に追求すること。本気で生きること。夢中になること。

今を大切にすること。自分に問いかけること。自分の外に答えを求めないこと。そう。答えは常に自分の中にあるのです。
 

snafkin7

この間、黒木メイサの深夜のつぶやきで「空気は読むものではなく、吸うもの」とありましたが、明言ではないでしょうか(笑)
仕事柄、必ずお昼は外で食べ、まわりの席で何が語られているか、聞き耳をたてる悪い癖がついているのですが、若手のグループからは、「あいつ、空気読めないからな…」とか「あの部長、空気読まないまま会議、進行したとか…」本当に多いですね、空気云々を言う人。たいがいが悪口を言う時に語られていて、そのグループはそれを口にした後、みんなで軽く笑うという、なんだか気持ち悪い人種が多くなってきているのも確かだと思います。
そういったことはどうしておこっているのか、学校環境にそういう傾向があったのか、いじめられないために、目立たないために、そういう能力が必要だったのか、若いうちから、処世術として、そういう術を身につけざるを得なかったのか、よくわかりませんが、独創性を歓迎しないようなことになっていますね。
フラクタル幾何学のマンデルブロなんか、5から先の掛け算もできなかったけど、幾何学的な思考はズバ抜けていて、現在のフラクタルの基礎をつくった。日本で5から先の掛け算できなかったら、完全に落ちこぼれ、馬鹿扱いされ、学会に浮上してくるような人物にならないような気がします。
重要なポストの大人たちでさえ、空気ばっかり読んでて、浅い行動に出てしまう。
日中関係の空気読んだら、体当たり船長を釈放する。特捜内の空気読んだら、FDの日付を変えるのが妥当と思い改ざんする。

「今を大切にすること。自分に問いかけること。自分の外に答えを求めないこと。そう。答えは常に自分の中にあるのです」

YES!

鍛冶 哲也

この対話は私にとってとっても刺激的で面白かったです。ブログというメディアの一番面白いところに触れられたような気がします。自分はちょっと、偉そうなこと言ってしまって、なんだか上から目線な発言してたような気恥ずかしさも感じますが。「KY上等!」というのがこのラリーのテーマであるならば、それもまたよしと考えます。

「そういったことはどうしておこっているのか、学校環境にそういう傾向があったのか、いじめられないために、目立たないために、そういう能力が必要だったのか、若いうちから、処世術として、そういう術を身につけざるを得なかったのか、よくわかりませんが、独創性を歓迎しないようなことになっていますね。」

↑ここのところがこのディスカッションを通じてあぶりだされてきた疑問かもしれません。「昔はよかった」というセリフは口にしたくないのですが、「いったいどうして今、こんな風になっちゃったんだろう?」という疑問は、このやりとりの中で、底の方にあったような気がします。

堅い言葉でいうと、現代世相批判(笑)みたいなテーマですが、なんだかもやもやと感じている違和感みたいなものをあぶりだしたラリーであったかと。

議論とか対話の醍醐味というのはさかのぼるとソクラテスまで戻ってしまうようなことですが、私にとってはこのラリーは固有の体験というか、エポックメイキングなものでありました。こんな世界の片隅でやっているのがもったいないくらいの対話でしたね。

私にとってはこのブログで最上の体験をさせていただいたように思います。交わした言葉の全てが愛しい。(←大袈裟か?)

でも、大きく振りかぶって、偉そうなことをつぶやく快感を知ってしまったので、こういうのをまたやりたいと思います。何度でも。(できるかどうかは別にして)

それにしても、ブログって面白いですね。(水野晴郎風)

snafkin7

鍛冶哲也さんとの「しあわせ会議」は私も凄く楽しかったです。

糸井重里のトイレの座る角度の話。あれは本来、メディアにのらない話なんですよ(笑)神戸のポートピアホテルでの特別講演でしゃべってはった。というか、糸井さんが官庁とか、経営者を集めた講演で話す、特別のネタなんですね。私はその講演、萬流コピー塾の元塾生の応援部隊として参加していました。

他にも面白い話がありましてね、例えば鍛冶さんが、どういったところで笑う人なのか……

鳩が何か落としていったよ。 フ〜ン

鳩が何か落としていったよ。 ウッフ〜ン

鳩が何か落としていったよ。 ポトン

鳩が何か落としていったよ。 汚ねぇな

反応する場所で、その人の思考幅がわかるというのと、一周する訓練をしないといけない、一番ボリュームゾーンの、フ〜ンのあたりに帰ってこないとダメですよ、という助言。

ブログは面白い。

こんな対話ができるから…

秋元康が週間ポストで語っていましたが、ヒットする企画はほとんど、対話から生まれたと…一人でうんうんうなっていても、いい企画は生まれないと…

あえて、翼には入れなかったのですが、AKB48の総論を自分のブログに入れました。この記事が自分のブログ人生の中で、最高の出来です(笑)

AKB48総論 - キャズムを越えたアイドルたち
http://www.marketingv.net/archives/52030803.html

こんなところで宣伝してどうする?(爆)

ありがとうございました。

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