マルチレイヤーとは、重層的という意味だ。
情報の解釈において、マルチレイヤーで考えること。
事実はひとつだとしても、それに対する解釈は複数ある。いろいろな立場から、いろいろな見方がある。
例えば、グーグルがパソコン用のOSを開発するというニュース。それについての受け止め方は人それぞれだ。肯定的、否定的、無関心。それぞれの人の、それぞれの生き方とそのニュースとの関係度合いによって、その受け止め方には様々なバラエティがある。
事実に対する解釈、意味づけは多義的だ。何故なら意味付けとは、ある情報をほかの情報と関連付けることをいうからだ。その関連付けられる背景の情報が、ひとりひとり異なるために解釈は多様化する。関連付けとは連想と言い換えてもいい。
その人の生き方、過去の経験、記憶と現在の関心。その人なりの世界観、つまり情報世界と、あるニュースという新しい情報とを関連付けることが解釈するということだ。
その関連付けるやり方を理屈という。意味づけ=リクツだな。
しかし言葉と言葉とは一対一ではつながっていない。ひとつの言葉は複数の言葉とつながっている。その相関関係は極めて複雑だ。
例えば「りんご」という言葉を聞いた時に、そこから連想するものは、人によって様々。普通に果物としての「りんご」は誰もがイメージするだろうが、歌手の名前を連想する人もいれば、ダイエットを連想する人もいる。
アダムとイブの失楽園にもつながるし、ニュートンの重力の発見を連想する人もいる。スティーブ・ジョブズの会社もアップルだ。映画と小説がヒットしたダビンチコードを連想するかも。哲学なんかをかじっている人は、主観と客観の説明によく使われるのがりんごだったりもする。
ひとつの言葉から連想されるイメージは、人によって実に様々で多様である。
文章とは、そうした言葉を次々と並べていく訳で、その複雑な連想イメージ、言葉の相関関係のスイッチを次々と押していくようなものだ。そんなやり方で、人と人とはコミュニケーションをとっている訳で、ニンゲンってすげぇな。
そして言葉の定義すら確定できない、多義性を不可避的に抱えているこうした言葉によるコミュニケーションとは、なんと曖昧なものであることか。
人間の言葉を理解する人工知能というものを創り出すことがどれ程困難なことなのか。
また、相互理解ということがどれ程困難なことなのか。
言葉に頼ったコミュニケーションとは実は大変なことなのだ。逆に感情に訴える方が共感を生みやすいのではないかと思う。喜怒哀楽と言われるように、感情の方が言葉による概念よりはるかにシンプルだから。
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