「出会い」に関する考察。
本屋に行くと実にたくさんの本がある。膨大な量の情報だ。
その大多数は自分とは無縁に終わる。それら大多数の本を私が読むことは生涯ない。
だが、そのうちの極わずかないくつかの本を私は手に取る。その大半はやはりそのまま棚に戻され、私が実際に読むことはない。
しかし、時に良書に出会う。
その出会いは時に私にとって大きな意味を持つ。自分にとってはその出会いが必然であるかのように感じられることがある。この偶然には意味があると感じられることがある。
恐らく、厳密な意味での必然性はそこにはない。因果関係が存在する訳ではない。
ただ、「私」がそこに意味を汲み取っている。或いは感じている。
そのことに意味とか必然性を感じているのは私の勝手な思い込みである。
シンクロニシティとはそのようなことを言うのではないか。
本屋における私の行動が、既にある種の選択をしているともいえる。選択とはありうべき可能性の幅を絞り込むこと。
偶然を選び取っている。行動によって、偶然の範囲を絞り込んでいる。
行動による選択に加えて、もうひとつの要素があるかもしれない。
知覚の選択性の問題だ。人間の外界認知においては選択性が働いている。感覚器官が知覚した刺激はその全てが意識化されるわけではなく、選択的に意識化される。知覚された情報の多くは無意識のうちに捨象され、その中の一部のみが意識化されている。その捨てるか拾うかの選択基準の問題、フィルタリングの問題が関係しているようにも思う。
つまり普段は見えていても見ていない情報。意識化される前に捨象されていたような情報が、フィルタリングの基準が変化することによって 意識化されるようになる。情報の方から飛び込んでくるようになる。その関心領域がやたら身の周りに目につくようになる。
それによって偶然出会いの準備がなされることになる。
データの蓄積によってそのような偶然の出会いの確率を高めること。リコメンド。「出会い」というのはユビキタスな世界にあって、案外重要なキーワードであるような気がする。
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