今回の金融危機に関連して、資本主義というシステムは必然的にバブルを生み出すものであり、新しい経済システムが必要だ、という考えがネットで語られているらしい。
バブルが資本主義にとって必然的なものなのかどうかはわからないが、バブルに関して思いついたことを少々。
文化人類学には「ハレ」と「ケ」という概念がある。
昔の日本では、日常生活としての「ケ」と、儀礼や祭りなどの非日常としての「ハレ」の時間が明確に区別されていたというものだ。祭りの時間の中では普段とは違う服を着たり、普段とは違う料理を食べたりする特別な時間だった。また、日常的な価値観やルールが逆転され、行動においても日常生活とは逆転した行動がとられたという。
今で言う、無礼講とか馬鹿騒ぎといったことなのだろうが、もう少し特別で、強い意味のあることだったのだろう。おそらくは村を挙げての行事だったのであろうし。特別な時間。
蕩尽とも呼ばれるような年に一度の浪費生活。建前と本音の間の垣根が取り払われた状態だったのではないだろうか。大騒ぎをして社会的エネルギーの発散によるストレス解消というか、欲求不満解消のしくみと捉えるとわかりやすいが、もう少し濃厚な意味を持っていたのかもしれない。何しろ年に一度の大騒ぎだ。それによって、何らかの社会的バランスの回復が図られたのだろう。
祭りは年に一度のものだったが。
かつての日本のバブル経済期の状態は、まさにこの「ハレ」の状態ではなかったか。皆で大騒ぎをし、贅沢な食事をし、夜ごと飲み歩き、ブランド品を身にまとい、高級品を買いあさったバブル期。それは数年続いた長期の「ハレ」の時ではなかったか。本来は数日で終わるはずの祭りが、長く持続した数年がかりの祭りだったのでは?
「贅沢は素敵だ」という価値観の転換を共有し、貧富の差が束の間、解消された時間だったのではないか(少なくとも気分の上では)。社会的なバランスを回復するための現象だったのでは?
「ハレ」の後には「ケ」が戻り、祭りの後には「失われた10年」という名の日常生活が待っていた。
「ケ」は、辛抱の時間でルールに縛られた時間で、地味な毎日のことをいう。
経済にサイクルというものがあるのなら、バブルというものは必ずしも悪いことではないのかもしれない。或いはそうではなくても、少なくとも社会のバランス維持のための必要悪であるのかもしれないのではないだろうか。
いや、単なる思いつきであるが。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。