ジャック・デリダというフランスの哲学者は、書き言葉と話し言葉の違いについてこだわっている。エクリチュールとパロールの違い。あまり詳しくはないのでエラソーなことをここに書くのも気が引けるのだが、自分的にも大いに興味はあるので、自分なりの考えを書いてみる。
手紙にしても、電子メールにしても、ブログにしてもいずれも書き言葉であり、時間差のあるコミュニケーション手段である。
これに対して、対面においてや電話を通じて行われる話し言葉はリアルタイムなコミュニケーションだ。
例えば、アポイントの日時を決めるやりとりなどではメールよりも電話の方がてっとりぱやい。あるいは企画のテーマを決めるような打ち合わせなども、直接話す方がはやい。双方向でぽんぽん言葉を投げ合って、合意点を見つけるためには、直接話しをするのがよい。会話を通じて早くアウトプットを出すためには、リアルタイムなコミュニケーションが向いている。(ような気がする。)上のようなケースではメールですらやりとりがもどかしい。時間がかかりすぎる。
話し言葉によるコミュニケーションの特徴は、リアルタイム性に加えてその双方向性にある。メールだって双方向だが、かかる「時間」の違いが大きいな。直接のコミュニケーションのメリットは大きいが、相手と時間を合わせなければいけない。そしてもうひとつ、話し言葉は残らない。記録性がない。話した内容なんてすぐに忘れてしまう。
書き言葉は、相手の時間を気にする必要がない。(まあ、長文送りつけると相手の時間を拘束しちゃうとかはあるけどね。)時間差コミュニケーションの利点だ。そして書き言葉は後に残る。あとで読み直すことができる。
書き言葉にはもうひとつ、ひとりごと的な要素があると思う。独白的な。時間差があるだけに一方的な言い方になりやすいということだ。(このブログも含めて。)どうしたって一方的に書き連ねることしかできない。短期的には。
長期的にみてみるならば、書き言葉だって双方向的にはなりうるし、ミクシイなんかは書き言葉によるコミュニケーションが成立してるように思える。でもミクシイのユーザー数は人口の1割くらいだし、ブログなんか書かない人の方が圧倒的に多い訳だし、しゃべり言葉に比べて書き言葉には制約が多いような気がする。書いたことが後に残ること自体を嫌がる人もいるだろうしな。
話が逸れたので戻すと、書き言葉はひとりごとのような性質があって、書き手の努力によってそれに双方向的な要素を付け加えることは可能である。
でもそういう意味では話し言葉にしたって、話し手によっては全然双方向にならない一方的なしゃべりまくりに終始することだってある訳で、書き言葉と話し言葉の違いなんて相対的なものにすぎないのかもしれない。
いやでもそれでもやっぱりネットによって、言葉のやりとりの、コミュニケーションの可能性はものすごく広がったのだと思うので、話し言葉と書き言葉の違いは大きいはずだ。その違いはつまりは双方向的であるかどうか、ではなくて、時間差があるかどうかにある、ということか。時間差がなければ、こんなに大勢の人間同士のコミュニケーションなんて成立のしようがない。
時間差のあるコミュニケーションとそれのないコミュニケーションとの違いをもう少し考えてみる必要があるみたいだね。
それから最後にもう一つ、ひとりごとの要素を持つ書き言葉には、自分の考えていることを客体化し、客観的に見ることができるようにするという効果もある。
今日のこのブログはあらかじめ結論を考えていた訳じゃなく、書きながら考えていたので、構成も何もなく、脈絡のない文章になってしまいましたとさ。と、いう客観化することにより今回はそういうオチ。 ・・・おあとがよろしいようで
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