ブログ検索のテクノラティというサービス。もうずっと前に日本でのサービスをやめていたのですね。
TypePadのブログ投稿ページにTechnorati タグ入力のメニューがあるのでまだあるもんだと思っていた。いや、アメリカのサイトはまだあるんですけどね。
で、テクノラティを検索していたらでてきた2009年10月の池田信夫さんの記事。
ブログ検索サービスとしての独自性は、グーグルやヤフーがブログ検索を充実させたことにより競争力をうしなった。結局、アクセスを稼げなくなったということだろう。だが、それに続けて池田氏はブログは広く普及することによりノイズが増えて情報提供手段としての利便性が失われたのだという。ブログ1.0の終焉だと。
こうしたリアルタイム検索やランキングは、今では他の検索サイトでも提供されている。またブログの数が増えるにしたがってノイズが増え、情報をブログから検索する意味がほとんどなくなった。むしろヤフーには「ブログを除いて検索する」というオプションがあるほどだ。さらに大きいのは、Twitterによってブログよりリアルタイム性の高い検索が可能になったことだろう。
TwitterにはTwitterのおもしろさがある。確かに。Twitterは情報の伝達が早い。簡単気軽に投稿できるからね。短い時間で幅広い情報に触れることができる。フォローの仕方にもよるのだろうが、確かにTwitterは幅が広い。雑食な感じがある。ニッチな情報も多いのだが、その範囲は広い。使い方次第ではあるけど。
いろんなニュースのヘッドラインを拾い読みしているような感覚がある。
私的には最近、Twitterおもしろくなってきた。フォローしてる人の多様性がちょうどよい塩梅になってきたのかもしれない。
もちろん、わずか140字のTwitterがブログに全面的に取って代わるとは考えられない。しかし今や情報としての価値のほとんどないブログは、2ちゃんねると同じ道をたどろうとしているように見える。コメントの「炎上」などのトラブルを恐れる人はSNSに移った。日本のブログは1690万あると総務省は発表したが、スパムブログや死んだブログを除いた数は200万~300万程度だといわれ、最近ほとんど増えていない。いわばブログ1.0の時代が終わろうとしているのだ。
なんか、アクティブなブログは200~300万程度、というのは感覚的にあってる気がするな。1000万ということはないだろう。やはり数百万の規模だろうと思う。
誰でも参加できるメディアでユーザーが増えると、ノイズが増えて最後はメディアが消えてしまうという現象は過去に何度もあった。「市民ラジオ」もノイズに埋もれて消えてしまったし、インターネットの初期の主流だったネットニュース(USENET)も、喧嘩と悪口の場になって誰も使わなくなった。大事な情報とゴミを区別し、意味のある情報だけを届けるしくみを実現しないと、ブログもメディアとして衰退するだろう。
この点で、ブログより簡単に参加できるTwitterでブログよりノイズが少ないのは、ウェブの今後の方向を示している。実名ではなくても、固定ハンドルネームで評判を守るインセンティブがあれば、匿名ブログより質の高い言論空間ができる。アマチュアによる「草の根民主主義」が世界を変えるなどという幻想を振りまいたブログ1.0が、テクノラティとともに終わるのは健全なことだ。
今の時点から2009年の記事を批判するのはフェアではないかもしれないが、Twitterだってノイズは多い。かなり多いと思う。思うに、ブログにしろTwitterにしろ、普通の一般人が情報発信するという意味ではたいして違わない。それは単にネット上のサイトの違いだ。記事の中で池田氏ははてなブックマークにも批判的に言及しているが、ノイズが多いという意味ではどんなサービスであれ同じことだろう。
情報を発信している人が同じなのだから、どんなサイトで発信しようがノイズが増えるのは同じだ。
しかし、『アマチュアによる「草の根民主主義」が世界を変えるという幻想』という部分についてははずれましたね。チュニジアやエジプトの体制変換は、それがFacebookのせいだとは思わないけれど、それが一定の役割を果たしたことは否定できないと思う。
FacebookであろうとTwitterであろうとブログであろうと、そんなの関係ねぇと思う。一般人の情報発信が世の中を変える原動力になったということがポイントだ。
ブログに比べてFacebookはひとつの話題を拡散するのには適していたという特徴はあるかもしれないが。
私にとっては、ブログであろうがFacebookであろうがTwitterであろうが、そんなことは重要ではない。情報発信の手段がマスメディアの独占を離れ、一般人に解放されたことの意味が大きいと思う。それは世の中を動かすほどに大きな力となったのだ。
我々はもはや無力ではない。可能性の上では。
Power to the people.
ジョン・レノンだ。
ブログのランキングサイトの登録数もあまり伸びていないようだ。
人気ブログランキングの登録数が、867,302件。http://blog.with2.net/
にほんブログ村の登録数は、556,874サイト。http://www.blogmura.com/
増えてはいるけど、爆発的な勢いはない。ポチッとな、でアクセス数を競っていた時代は既に過ぎ去り、安定期に入ったような感じだ。
終わったとは思わないけどね。
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2011/08/28 21:59
TwitterにしろFacebookにしろ、新しいサービスの登場初期にまっさきに飛びつくのはマーケティングでいうイノベーターとかアーリーアダプターと呼ばれる新しい情報に敏感な流行好きな人たち。
だから新しいサービスの初期段階ではエッジーなトガった最新ニュースが集まる。そのとんがり度がそのサービスのおもしろさになる。それはもう定説みたいなもんじゃないだろうか。
そのサービスが普及してアーリーマジョリティと呼ばれる層まで広がり、ある程度の裾野が広がった段階では池田氏が指摘するように初期段階のとんがり度が薄れてノイズが増えて、サービスとしての魅力が薄れるというのも既にパターンになっている。
でも私は、どんな新しいサービスであってもその違いは表層的なものに過ぎないように思う。本質はネットの誰でも情報発信できるフラットでオープンなところにある。
確かに、Twitterは情報の展開が速いし、幅広くいろんな情報に触れることができる気がする。
でも手間さえ惜しまなければ、鋭いブログを書くブロガーを見つけ出してそのRSSを追っかけてればTwitterと同じように情報収集はできると思う。
Facebookは、Twitterやブログの更新を表示していろんなサービスの情報を統合して表示することで優れたインテグリティを提示していると思う。チュニジアやエジプトで巻き起こったジャスミン革命のトリガーを引いたのは、特定のテーマについての情報を効率的に拡散させるFacebookの特徴が活きたのかもしれない。
しかしそれでもそれはそれぞれのサービスの表層的な違いであるように思うのだ。
結局、大事なのはコンテンツだ。中身が大事だ。
とはいえ、新しいサービスを次々試すことについては私は肯定的である。表層的な違いを、それでも私は軽視はしない。新しいものが普及し、広がるときには、そこには何か今までになかった利便性があるはずだから。
新しいものを追いかけることは悪いことじゃない。朝令暮改。君子豹変。昔々からいわれていることだ。
むしろ、既存のやり方に固執し、凝り固まることの弊害の方が大きい。固まり、固定化することを私はよしとしない。
守破離。前例に従って基礎を身につける。基礎ができたらその先に応用としてのブレークスルーを求める。型を広げるプロセスだ。こだわりを捨てて幅を広げていく。更にその先にあるのが「離」。型にとらわれず更なる自由の境地を目指す。
自由気ままにやっているようでいて、最強。型にはまらず、自由度が大きいがゆえにどんな状況にも対応できる。孔子のいう、「七十にして心の欲する所に従って、 矩を踰えず。」
それは究極の自由な状態ではないだろうか。絶妙なバランス。どんな立場にもこだわらない。しかもバランスなので固定化しない。状況に応じて動き続ける。止まることなく。
ああ。私は強く強く自由を希求する。
当意即妙というような。何事にもとらわれない自由な境地を
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2011/08/28 23:29
「そんなのかんけーねー!!」に痺れました。
Google+試してみたかったらお知らせ下さい。招待状送ります。私も全然まだよく分からない世界です。
投稿情報: Account Deleted | 2011/08/29 09:38
ブログ1.0が終わったのだとしたら、興味があるのはver.2ですね。終わったことそのものは重要ではないと。
で、全くの余談ですが、
> Power to the people.
これが最近、「電力を人民に」と聞こえてしかたありません。私としては、Power is enough! (=電力は足りている=権力なんかもうたくさんだ)という気分なのですが。
投稿情報: Account Deleted | 2011/08/29 11:16
言いたいことが言える場所があるってことは、活用しなきゃ!
ただ、それぞれのサービスにはよりますが、ネットでの発言は基本的にワールドワイドに公開されていること。そのことに対する自覚は必要だと思います。それはリアルな世界の日常とは全くフェーズの異なる世界であるから。
しかも、削除しない限りはログとして全て残るということも。
けれども、そうしたオープンでフラットな世界でありながら、それは一方で一部の有名人を除くとそこでの発言にはわずかなアクセスしかない。ほとんど、言葉が虚空に消えていくに等しい。そんな虚しさがある。
ゼロに等しい影響力。その一方、何かのはずみで炎上すると突如として莫大な注目を集めてしまう。そのイメージはゼロと極大とが境目なく連続的につながっている。
それがゼロから拡大する際の条件はわからない。何がトリガーになるかはわからない。ブラックボックス。不思議な世界。過激な世界。
アクセスの点において、有名人から無名人までが、極一部のトップから膨大なテールへと急カーブで分布するロングテールの世界。その世界をイメージするのはなかなか難しいことだろう。わけのわからない世界の中を私は漂っている。
有名人から無名人までが同じ世界の中に生きているという点ではそれはリアル世界と相似形を描いてもいる。
ネットは、言説空間、あるいは言論空間と呼ばれることもあるがまさにそんな感じ。言葉が連鎖しあう、響きあう空間。その中で、ある周波数が突如として共鳴を呼び、大きなうねりを巻き起こす。
そんな中でアクセスを増やしていくためには、人と人のつながりを利用していくというソーシャルな関係性の活用が確かに有効なのだろう。
それはブログであっても友人同士でコメントしあう形でソーシャルなメディアとなりえる。小さなコミュニティを形成する。
そのコミュニティが拡大するかどうかは、その場がより多くの人をひきつけるテーマを持っているかどうか、独自のコンテンツを発信し続けるかどうか、共感を集められるかどうかにかかっていると思う。
人と人とがつながりあうコミュニケーションのかたちが、変わりつつある。いまだ過渡期であろうと私は思う。
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2011/08/31 00:19
上のコメントで有名人以外のネットでの発言は虚空に消えていくような虚しさがあると書いたが、読み返してみて少し違うなと感じた。
リアルな友人であったりもしかしたらバーチャルな友人であったり、そうした数十人程度のお互いのブログやTwitter、Facebookを読みあっているグループ(或いはコミュニティ)は多数ある。
いや、グループとも少し違うか?ある人の友人同士はお互いに知り合いではないかもしれない。お互いに知っているグループではないかも。基本は1対1の関係が重なり合っている。
友達の友達は友達ではなかったりもする。
少数ではあっても固定読者はあり、コメントにより会話しているブログは多数あるように思う。そうでないブログも多いが・・・
会話となっているブログと独り言になっているブログとが混在している。ということか。
mixi疲れという言葉があるが。確かに放置していると友達は離れていく。相互の関係が薄くなっていく。関係を維持するためにはタッチし続ける必要がある。Keep in touch.
テレビに出続けていないと存在が忘れ去られてしまう芸能人のようなものか。
いや、むしろ、リアルな人間関係の相似形ではないか。親しい仲と疎遠な関係。
関係を維持するためには努力が要る。それを努力として意識するかどうかは別にして。継続するためには努力が要る。
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2011/09/04 08:04
mixiとブログの違いは確かにある。コンテンツは同じでも読者の違いはある。
mixiはやはり閉じた世界である感はある。見るのは友人だけ。足跡をみていると友人以外の訪問者はあるが、それは勧誘系だったり、単なる行きずりだったり。いずれにしろ数は少ない。
対してブログはmixiよりはアクセスが多いと思う。それはオープンであるからだと思うのだが。検索で訪れる人は少数だが確かにいるし。クロウラーがカウントされているせいかもしれないのであまり確かなことはいえないが。
音楽CDのレビューをmixiにもブログにも書いたりするのだが、同じコンテンツでもブログの方がオープンな感覚はやはりあるのだ。
mixiの友人が20人程度と少ないせいかもしれないが。
mixiにはあまり力をいれていないからかも。あんまりアクセスしていない。近頃は放置に近いかもしれない。前のコメントでいう関係維持のための努力をしていないので・・・
面倒くさがりやで、マメじゃない性格のせいなのか・・・
サービス精神が足りないのか・・・
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2011/09/04 08:26