自分の書いた過去のブログを読み返してみることがあります。自分で書いておきながら、そのこと自体、すっかり忘れていることもありまして。自分を再発見するような面白さもあったり。
けど、私の場合、音楽、映画、読書など、テーマごとにそれぞれ違うブログを持ってたりするんで、どこに何書いたか余計にわからなくなってたりします。ブログのほかにSNSも、mixi、MySpace、last.fm、goo、Facebook といろいろアカウントがあって。いろいろ試してみたい性格なんで、手を出しては放置してたり。
それでも書いてる時は真剣なんで、どーせ読み返すならいろいろまとめて読み直したい。てゆーか、自分でどっかに書いた内容を検索したい時とかあるんですよね。どこに書いたか覚えてないんだけど、どっかに書いた記憶がある、みたいなとき。そういう検索ができればいいなと思います。
なんか、昔っからそんなこと考えてるみたいなんですね私。
インターネットの本質は、それがひとつの巨大なデータベースであることと、時間差のあるフラットなコミュニケーションを成立させることにある。私はそう考えていますが、そのコミュニケーションには過去の人物や過去の自分自身も含まれるのだと。そう思い至りました。相手はコンピュータであるけれども、そこに記録された情報はすべて人間の発したメッセージであると。
ちょっと、私にとってはこのブログの原点回帰のようなリンク集になってしまった。
以下にリブログする松本さんのブログ↓とそこでのコメントのやり取りを読んでいて、そんなあれこれを考えたのでありました。
寝たふりモードでネタ拾い ~コンピュータは人間の思考を変える―あたりまえのことではあるけれど~ by 松本淳
人間の記憶容量には限界があります。いくら人間は一生のうちに脳の3分の1しか使わないのだというようなことが言われても、やっぱり無限にものをおぼえるわけにはいきません。私の高齢の伯母が先日、認知症のためやむなく施設に入所したのですが、彼女は判断能力は完璧です。こっちがボケればちゃんとツッコんでくれますし、爆笑ものの冗談も痛烈な皮肉も飛ばします。けれど、新しいことは何一つ覚えられません。ほんの数分前に話したことも覚えていないし、自分がどうしてそこにいるのかもわかっていません。それでも過去の記憶は細部まで正確に呼び出せます。CPUは完璧でハードディスク容量がいっぱいになったPCのようなものです。こういう人と話をしていると、「やっぱり人間の記憶容量には限界があるんだなあ」と思います。そして、忘れる修行をしなければいけないと…
いや、話がそれました。アメリカの研究者らが、インターネット時代のパソコンユーザーは、情報そのものを覚えようとするよりも情報の在り処を覚えておこうと無意識に頭を働かせるのだという研究結果を発表したようです。つまり、インデックス化をやるわけですね。なんだ、コンピュータが人間の頭の働きを模倣するんじゃなく、人間がコンピュータの働きを模倣し始めてるって、そういうことなんじゃないでしょうか。元ネタはこちら。
Internet's memory effects quantified in computer study研究結果に水をさすわけじゃありませんけど、もともとたくさんの情報を扱う人の頭の働きってのはそういう傾向があったんじゃないでしょうか。たとえば私は、むかし小さな雑誌の編集をやっていたとき、その分野の資料を膨大に溜め込んでいました。膨大な資料の中身を全部覚えるだけの頭はありません。けれど、必要に応じて、「あれはあそこのあのあたりにあったはずだ」ってのには、相当なスピードで対応できました。そういう情報を求めてやってくる仲間からは「物知り」と思われていましたけれど、中身まで覚えていたわけじゃないんですね。だいたいの雰囲気で、インデックス化できていたに過ぎません。
そんな昔話でなくとも、たとえば数週間前、小学生の息子がちょっと知りたいことがあって、母親に図書館に連れて行かれたんですね。で、司書に相談したら、あっという間にめざす情報が乗っている本を引っ張り出してきてくれたと、驚いていました。けれど、司書は本のエキスパートであっても、各分野の学問のエキスパートではありません。情報を驚くほどの速さで提供できても、それだけでは知っていることにならないんですね。司書の能力は、決して情報の細部を覚えておくことではないわけです。
かつてはそういった検索能力は、ごく一部の職種にだけ求められる能力だったのだと思います。ところが何でもネットに転がっているこの時代になって、多くの人が自分の能力をそういう方向に振り向けるようになってきたのではないでしょうか。だから、情報を覚えようとするよりも、その在り処を覚えようとするように指向が変わってきた。それは情報に押しつぶされないための知恵であるのかもしれません。
犬は飼い主に似るといいますが、Googleばっかり使っている人は頭の中身もGoogleのようになっていくと…
via mazmot.bloggers-network283.com
松本さんのブログで紹介されていた記憶に関する研究。コンピュータに情報があるとわかっていることに関して、人間はその内容そのものを記憶するのではなく、その情報のコンピュータ上のどこにあるかを記憶するようになる。
それは、ネットを自分の外部記憶として使うことだ。そんな内容で私は、その松本さんのブログの中で次のようなコメントのやり取りをしました。このコメントのやり取りが、私の記憶に強く残っていたのかもしれません。
鍛冶:興味深い話題ですね。自分自身の経験としても、「あ!このネタは以前にどっかのブログに書いたことがある」と思って、自分のブログを検索したりすることがあります。細部は覚えていないのです。でもそのブログに書いたという記憶はある。
めでたくそのブログを見つけられると、数字とか、情報源とかがわかって、それは確かに役に立ちます。ブログを書くメリットとしてそういう利便性もある。
コンピュータというか、ネットには外部脳というか、外部記憶としての使い方が確かにある。その使い方がうまくなる方向に人の方が向かっていくというのはありそうな話だと思います。
あ、自分のブログだけでなく、翼の誰かのブログで読んだことがある、という場合もあるな。
リブログしたり、ブックマークしたり、リンクしたり、Twitterしたりすると、そういう場合のリンク復活に便利だったりしますね。
インデックスをうまくつくっておくことって、とても重要かもしれない。
松本:「外部記憶」。そうなんですよね、この記事を読んで、なんとなく脳にプラグインされた攻殻機動隊を思い出してしまいました。じゃあ、いろんな機能を外部にアウトソースしていった場合、最後に人間に残るのは何なんでしょうね。ゴースト、ですか…。単なる欲望だけが残りました、なんてことでなければいいんですけれど。
鍛冶:「いろんな機能を外部にアウトソースしていった場合、最後に人間に残るのは何なんでしょうね。」
これ、おもしろいテーマですね。動物としての人間の脳は、体重比でかなり極端に重いと聞いた気がします。脳が大きい。個人的には言語の使用によって、人間は情報処理能力が他の動物と比べて大幅に拡大したのだと思う。人間の記憶容量の拡大は、それと何らかの関係があると思います。
人間と他の動物との違いは、言語、情報処理、記憶容量の差である。ざっくりとした仮説。
で、脳の機能を外部化していった時に残るもの。好き嫌いの感覚かな。新たな情報に接した時に、それを記憶するか、スルーするかのフィルタリング機能。それプラス、新たな情報を既存の情報と関連付けして追加していく情報の構造化の機能。
例えば、「外部記憶」という情報、概念を「攻殻機動隊」という概念と結びつけて記憶するそのはたらき。連想のヒモをかけること。
新しい情報にタグをつけること。
新しい情報を理解、解釈し、記憶の網に新たに結びつけること。情報として追加すること。
パソコンに新たなファイルを保存する際に、どのフォルダに保存するか選択すること、みたいな感じかな。ちょっと違う?むしろ、タグをつけたり、検索しやすいファイル名をつけることに近い?
でもこれ、いろんな機能をアウトソースじゃなくて、単に記憶をアウトソースしたら、という仮定です。脳のほかの機能を外部化したら、というのとは違う。他の機能を外部化するとはどういうことか。例えば思考とか判断とか?
自分で考えて判断せずに、空気を読んでまわりの流れに従う。なんてのは、既にして脳の機能のアウトソース化をしちゃってることになりませんかね。外部化のあげくの空洞化ですね。
松本:> 自分で考えて判断せずに、空気を読んでまわりの流れに従う。なんてのは、既にして脳の機能のアウトソース化をしちゃってることになりませんかね。
そこですよね。元記事の方では、研究者のテーマはもともとWebではなく、配偶者の記憶だったといいます。夫婦は記憶を配偶者に依存するようになるという研究ですね。でも、判断を依存するのはもっとあたりまえにあるような気がします。となると、同じ線上でいけば、Webの情報(つまり空気)に判断を依存すると、そういう仮説につながっていきそうです。
で、「だからダメだ!」と目くじらを立てるんじゃなくて、「じゃあその空気ってなに? 空気と人間の意志ってどういう関係があるの? その場合の個人とは? 人間とは?」と考えが進むのがあり得べき方向だと思うんですね。さて…
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