強欲なのか、資本主義の論理 ~それでも開発は続くよ by 草木生
電通の戦略十訓
1970年代に電通PRセンターが提唱していた「戦略十訓」らしい
もっと使わせろ
捨てさせろ
無駄使いさせろ
季節を忘れさせろ
贈り物をさせろ
組み合わせで買わせろ
きっかけを投じろ
流行遅れにさせろ
気安く買わせろ
混乱をつくり出せ
いやぁ、どこの会社もそのままでっせ
あ、これが経済政策の基本かw
via soumokushow.bloggers-network283.com
理屈はよくわかんないけど、経済ってもんは転がり続けてないとうまくいかないもんだと思う。
経済の不況が続くとたいてい戦争につながる。国民の不満が溜まるとそのはけ口を戦争にもっていくってのが過去からの経験則。国の外に悪者をつくって、悪いのは全部そいつのせいにして感情エネルギーを憎悪に振り向けて、殺すか殺されるかという緊急事態をつくりだし、経済的には更にどん底を経験した上で、勝ったらそれなりの高揚感があってかつての不満はどこかに消えている。
戦争にならなかったとしても、国民の不満は政治体制の交代を呼び寄せる。国民の不満の団結は時に軍による制圧を上回ることがある。これも経験則。それも現在進行形の。まさに今、チュニジアやエジプトで我々が目撃している、革命という名の体制崩壊。
その結果は、変化であり、不安定な政治経済状況だ。よしあしは別にして安定していた体制を壊せばその結果は不安定な状態を生む。下手すりゃ内戦だ。ドロ沼の破壊と殺し合い。我々はイラクでそれも目撃した。そうならないように、崩壊後の不安定なカオス状態から再び安定をつくりだすのは、ある意味、国をもう一度つくるようなものだ。大変な努力とエネルギーとリーダーシップが必要な大仕事だ。体制打倒で一致し、それが実現した後はバラバラになった民意を、今度はポジティブなビジョンで統一しなければいけないからだ。ひるむべきではないが、結果の見えない大仕事である。
経済がうまくまわっていれば、そこまで不満が蓄積することはない。貧富の差の存在は、程度の差はあれどんな国にも存在する。ある程度の許容量はあるはずだ。金持ちの数が極わずかで、自分達とは関係のない世界だと感じているうちは。だがしかし。金持ちの数がある程度増えて、「知り合いの知り合いが金持ちだ」なんてことになってくると、嫉妬と羨望のルサンチマンの鎌首がもたげてくる。「どうしてあいつだけうまい思いをしてるんだ?」
不況を避けるためには消費が増えなければならないだろう。その意味では消費は善であろうと私なんかは思うのだ。金は天下のまわりもの。まわってる限りは世の中は安定するはず。まわらなくなると不安定化する。
無駄遣いはあっていいものだと思うのだ。生活必需品以外の支出を無駄と呼ぶならば。誰もが必需品しか買わなくなれば、そりゃ経済はまわらないよな。とか思う。無駄な消費はあっていい。ヲタク文化なんてその最たるものぢゃないか?
思うのだが、江戸時代の日本は長期にわたり、政治経済的には安定していて、様々な大衆文化が花開いた時期だと思う。浮世絵だとか赤本、芝居、歌舞伎、狂言、能、相撲、唄、茶道に華道、様々な芸能、文化が多様に発展した時期であったと。
そう、今現在の日本に残っている歴史伝統、風習、祭り、伝統料理などなどで、その歴史を辿ると江戸時代に行き着くというものが結構、多いはず。それより昔には辿れない。日本には確かに2千年の歴史があるけれども、それら歴史伝統の中で、現代日本の実際の根っこにあるのは江戸時代に生まれたものが多いのではないか。学者ではないので実証はできないが。単に一個人の感覚論である。
そして、現代日本がアニメやゲームで世界的にも支持されているコンテンツ産業の根っこにあるのは、これらの江戸時代の多様な文化ではないだろうかと夢想するのである。友情。義。信。忠。そういった価値観や感情の機微といったもの、そして映画マトリックスが模倣したクロサワ映画の美意識。そういったものの根っこが、江戸時代に大衆化した文化、芸能の多様性にあるんじゃないだろうか。
文化や芸術が大衆化していたという点で、江戸時代の日本というものは、相当に特異な都市だったのではないか。少なくとも当時は、蘭学などの一部を除いては、外国を真似するということが一切なかった。なにしろ鎖国だから。全てが日本独自だったわけだ。かなり特殊な300年だったのではないかな。
で、そういう生活必需品以外のところに一般ピーポーがカネを使っていたというところがすごいところではないかと思うわけですよ。国民の美意識が高かったということではないのかな。
美意識、大事にしようよ。ね?
文化の大衆化とは、悪く言うとコマーシャリズムであり、世俗化であり、俗悪化を招くこともあり、また粗悪なコピーすなわちエピゴーネンの蔓延につながることもある。よいことばかりではない。
しかし、広く普及する文化とは何らかの普遍性をもったものであり、多くの人々に共感されるということであり、人間の本質、根底につながる何かがあるということでもある。
大衆に広がる文化とは、人と人とを結びつける何らかの力であると思う。
食うこと以外のことに心を向けるという、その余裕が、豊かさというものではないだろうか。
そして、生活必需品とは真逆の方向を目指すヲタク文化というものは、正に豊かさの果実というべきものでは?
中国のネットヲタクが、日本人をバカにして使う蔑称である「日本鬼子」という言葉(いわゆるアメリカ人がかつて使ったJAPみたいな)を、当の日本の2チャンネラーが「日本鬼子」というキャラにみたてて、そんな名前の萌えキャラ風イラストを多数ネットにアップしたという、そんな得体の知れない遊び心というものの存在が、日本人の懐の深さとかヲタク文化の豊かさを表しているんじゃないだらうか?
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&source=imghp&biw=1155&bih=594&q=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%AC%BC%E5%AD%90&gbv=2&aq=f&aqi=&aql=&oq=
http://dic.pixiv.net/a/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%AC%BC%E5%AD%90#c2fe014e68b2066a804f5612b6a6484a
美少女「日本鬼子」は対中外交の切り札?(産経ニュース)http://sankei.jp.msn.com/economy/news/110117/its1101171936005-n1.htm
相手をバカにして吐かれた言葉を逆手にとって更におちゃらけて返してみせるその柔軟さ、したたかさ、しなやかさは、いかにも日本的な平和主義の主張として強力な威力を持っているように思う。罵倒する相手をも脱力させるその遊び心はステキだと思うのだ。相手の戦闘意欲を失わせるヨユーと遊び心は、平和を実現するパワーじゃあない???
ユーモアというものは、文化の成熟を示していると。
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2011/02/14 23:02
上のコメントで「食うこと以外のことに心を向けるという、その余裕が、豊かさというものではないだろうか。」と書いた。
「豊かさ」とは何であろうか。今現在、チュニジア、エジプト、リビア等、多くの国が揺れて混乱している。体制の変換を求め、大規模なデモが頻発している。
これらの国は、文化的な意味で、豊かではないと言えるのか?実情を知らないので何とも言えないのだが。想像するに、これらの国ではむしろ、カネ儲けが一番大切なことではないんじゃないか?人生に対する価値観が、経済至上主義ではないんじゃないだろうか。人生にはもっと大切なことがある、という価値観がひょっとしたらあるんじゃないだろうか。
もしそうだとしたら、本当に豊かなのはどっちだ?
昨日のテレビで、マレーシアのマラッカを取材していて、そこではヒンドゥー教、イスラム教、中国仏教がそれぞれお互いに距離を置き、お互いに一定の敬意を払いながら共存している姿があった。過去のポルトガルやオランダ、イギリスの植民地支配を受け、その歴史的背景から人種的にも中国やインドを含めて極めて多様な混血社会となっている。ものすごく複雑で多様な人種と、宗教とが、混在し、共存している社会。
それは私にとってはとても未来的な、ある意味理想的な社会であるように思えた。様々な違いを許容し、共存するオトナ社会。インターナショナルな国際社会。人種の入り混じった混血社会。ハイブリッド。我々人類は、もっとオトナにならなければいけないんじゃないだろうか。
マラッカのあり方に、学ぶべきものは多い。
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2011/02/20 07:51
そのマレーシア マラッカのテレビの中で、彼らがお互いに人種や宗教の違いがあることを認め、それをお互いに尊重しながら、距離感をとりながら、それでも仲良くコミュニケーションをとっていることについて、「思いやり」が大切だというような言葉があった。それは英語では、"common sympathy"と表現されていた。
その英語がなぜか印象に残った。"common sympathy"。人類は平和に共存できるはずだ。そう信じたい。心からそう思う。そう願う。世界平和の実現を。
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2011/02/20 18:26