2010年7月15日 言葉職人のデスクトップから/松本淳
『どっちも正しい』 より引用
なぜすれちがうのか?
議論というのは、どちらが正しいかを決めるためのものではありませんよね。だって、対立する議論は、たいてい、どっちも正しいからです。
そもそも、ぼくらの習った論理学がおかしいのです。さいわいなことに正逆対偶なんて概念を持ち出した論理学はぼくらが習ったのを最後にずいぶんむかしに教育課程から姿を消したみたいですけど、「一方が正しければ他方はまちがっているはず」なんてことは、ふつうはあり得ないのですから。
そりゃ、非常に単純な数学的命題の場合は、真理は排他的ですよ。「AはBである」という命題は、「AはBではない」という命題と対立します。どちらかが正しければ、どちらかがまちがいです。けれど、現実世界でこんな単純な命題が問題になることはまずありえません。
たとえば、「消費税を上げるべきかどうか」という議論があるみたいですけれど、「消費税を上げるべきだ」という主張も、「消費税を上げてはいけない」という主張も、どっちも正しいですよ。これは、「消費税を上げる」という選択と「消費税を上げない」という選択が排他的に対立するのとはちがいます。主張としては、どっちも正しいです。
なぜなら、2つの主張の枠組みがまったく違うからです。もっといえば、ひとつの主張のなか(たとえば消費税を上げるべきではない)でも、議論によって枠組みがちがいます。「生活」を前面に出したり「格差」を持ち出したり、「景気」を主張したり、「無駄の排除」を論じたりと、その人の立場、世界観によって、根拠はそれぞれちがっています。そして、それぞれの根拠は、必ずしもかみ合っていません。そして、それにもかかわらず、ひとつひとつの主張はその内部ではたいてい正しいのです。
人間の数だけ正解がある
かんたんなことです。ひとつの命題には、膨大な境界条件があります。けれど、それが明示されているか暗黙に共有された数学や物理学の世界以外では、このような膨大な境界条件をだれも精査しません。できっこありません。そんなことをしていたら日がくれてしまいます。現実世界の境界条件といえば、それこそ無限で、不定です。議論の主が意識しているといないとにかかわらず、とてつもなく大雑把な単純化と意味づけを行わない限り、現実世界を把握することなどできはしません。
そういった把握の方法を、「立場」とか「視点」とか「世界観」というのでしょう。ひとつの世界観があって、はじめてひとつの主張が生まれます。逆にいえば、あらゆる主張は、何らかの世界観、つまり現実の抽象化の方法を背景にしています。それが異なれば、当然、事実も異なるのです。異なった事実から出発した主張が異なっているのは当然です。
なんでこんなどうでもいいようなことをこのブログのシリーズの冒頭近くに書くかというと、ぼくは正しいとかまちがっているとかいう議論に巻き込まれるのにほとほと嫌気がさしているからです。ぼくはぼくの主張で(ときには事実の誤認や自家撞着があるとしても)基本的に正しいけれど、それはあなたの正しさを否定するものではありません。まず、それを大前提としてほしいわけです。
意味のある議論をめざして
対立する意見のどちらも正しいのなら、議論には意味はないのでしょうか。そうではないと思います。議論の目的は、どちらが正しいかを決めることではないのです。そうではなく、互いの世界観のちがいを認識し合うためのものです。
この世には、人間の数だけ異なった立場があります。それぞれの立場のちがい、それぞれの世界観のちがいを認識することで、お互い共存していく道が見えてきます。議論とは、そういうものです。
このブログが「議論」の一部になることができるのかどうか、ぼくにはわかりません。ただ、ぼくはこのブログをできるだけぼくの立場、大げさにいえば世界観がはっきりするようなものに書いていきたいと思っています。
↑これは素晴しい記事です。私は深くこの内容に賛同します。
人の数だけ「正しい」がある。それは人間の認識が不完全であり、「正しくない」から。
だから一致しない。人は自分の外界の極一部しか認識していない。わかっていない。
更に言えば、自分に都合よく解釈して理解したつもりになっている。
例えば、今の日本の経済状況について、正しく理解している人がいるか?
見ている立場によって理解が違う。見えているものが違う。
もしも完全な認識というものが可能であれば、完全な認識を持つ者同士の間では、「正しい」の一致があるかもしれない。
ないかもしれない。
完全な認識の持ち主というものは、「神」といってもいい気がするが、神とても神と悪魔の対立がありえる。
完全な認識を持ってしてもなお、目指すものの違い。立場の違いというものは存在しうるかもしれない。
まあ、神話の話である。
実際には、人の現実認識はそれぞれに異なる。人はそれぞれ異なる世界を見ている。
たったひとつの「真実」はない。
「たったひとつの真実」。それは20世紀の理念である。
「正解」なんてない。それが今の理念というものであろうと思う。
しかしそれであってもなお、議論を通じて互いの世界認識の違いについて共通認識を持つことには意味がある。
松本氏のいうように共存するためだ。よりよい相互関係に変化させるためだ。関係改善のためだ。
世界を今よりもちょっとだけよくすることはきっと可能だと思うのだ。
私が楽観的な人間である所以であるだろうと思う。
私は、John Lennonの"IMAGINE"という歌が好きなのである。
同感です。
「正しいものはない」というのがここ最近の私のテーマでもあります。
議論をする目的は「正しい」を見つけることではなく、異なる立場・観点から見た考え方を理解し合いお互いを成長させることにあると思います。その上で目の前にある問題や選択肢に対して「より適している」選択ができれば今よりも少しだけいい世界となれるんじゃないかと思っています。
投稿情報: kenji_namba | 2010/09/05 00:59
リブログありがとうございます。で、いま自分の書いたものを読み返してみて、
> 「AはBである」という命題は、「AはBではない」という命題と対立します。
が誤っているのを発見しました。「AはBではない」ではなく、「BはAではない」と対立するんですね。
このように、私の書くことは極めていい加減です。
> ときには事実の誤認や自家撞着があるとしても
じゃなくて、事実の誤認や自家撞着ばっかりなんですね。それでも、どこかで「正しい」と言い張るのは、結局は、自分の行動がよってたつのは、自分の認識でしかないからなんだろうと思います。その認識は、どこまでいっても誤認や自家撞着の集積でしかありません。けれど、それを前提としなければ、一歩も進めないわけです。朝になって布団から出ることも、飯を食うことさえできない。
だから、間違っている認識が、「正しい」と。間違ってますよねえ。
投稿情報: Account Deleted | 2010/09/05 09:29
nambaさん
コメントありがとうございます。
たったひとつの正解がないということは、シロかクロか、ゼロかイチかの2択ではなく、その中間点のどこに着地するかという、アナログな結論をだしていくことになる。
シロが72%に対してクロ28%というような。さらにその中で1%の増減について議論するというような。
もしかしたら、それは非常に辛抱強い忍耐を強いるプロセスであるのかもしれません。
単純に、敵か味方かで区別して対処するのは簡単で効率はいいかもしれない。しかしそれは望ましい方法ではない。
議論をし、コミュニケーションして相手を理解するためには相応の努力が必要です。忍耐も。それでもそれは必要なものなのだと思います。
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2010/09/05 15:07
松本さん
引用させていただいたもとの記事、少し前のものですがずっと意識の中にあって気になっていたもので全文引用させていただきました。
> だから、間違っている認識が、「正しい」と。間違ってますよねえ。
↑これに対して、「それは正しい!」と答えるべきか。それとも「それは間違っています!」と答えるべきか。頭、混乱します。(笑)
結局、「自分は正しい。そしてあなたも正しい。」も、「自分は正しくない。そしてあなたも正しくない。」も、同じことをいっているようなものです。
問題は、「自分は正しい。そして自分以外は正しくない。」と決め付けて疑わない人。そして「自分は正しい。そしてあなたもまた自分は正しいと主張する。それならどっちが正しいか勝負しよう!」となってしまう人。
もともと日本にはやおよろず(八百万)の神がいたんだから、それを採用すればいいのに。
正解は少なくとも八百万の数だけあります。あなたはそのうちいくつまであげられますか?
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2010/09/05 15:28
コメントを書いていてふと思ったこと。
確かに世の中は白か黒かのどちらかで割り切れるものではない。私はそう思っているのですが。
そういう考えでやっていくと、どうしても判断が玉虫色になる。どっちつかずになることもあるし、時には判断停止状態になることもある。
今の日本が置かれている状況。年金や医療保険などの社会保障や或いは巨大な国債の債務についての問題先送りによる制度疲労状態。この状況は玉虫色な判断保留を続けてきた結果であるのかもしれない。
ふと、そう思いました。
しかし、確かに過去を断ち切るためにはゼロかイチかの判断が必要かもしれない。スクラップ&ビルドのためにはそのような判断が必要かもしれない。
けれども、果たしてこれまでの日本は上記のような問題を真正面から取り上げて議論したことがあるだろうか。議論したうえで玉虫色の結論を出し続けてきたのだろうか。
どうもそうではないような気がします。議論そのものを避けてきた。問題の存在そのものを無視してきた。臭いものにフタ。議論を避けるという行為の最悪の結果の見本のような状態が今の日本であるかもしれない。
そうであるなら、今は何でもかんでも議論の俎上にあげるのがよい。消費税でも法人税減税でも子供手当てでも高速道路無料化でも普天間問題でも年金でも医療でも雇用でも介護でも教育でも規制緩和でも特殊法人でも国の借金でも。
いずれにしてもここまでうず高く積みあがった問題を解決するためには、現在の社会保障制度を削る以外に方法はないだろうと思うけれどね。そのための方法論を考えなきゃいけないと思う。
経済が大きく成長することは望めず、人口は減少に向かう状況の中で、他にどんな選択肢があるというのだろう?
答えは借金の積み増し以外にないよね。たぶん。
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2010/09/05 16:18
「玉虫色」の結論を出すために議論をするんじゃないんですよね。妥協することはけっして目的じゃない。妥協は無意味なんですよ。妥協は常に負けです。90%の勝利というのはないんですね。10%でも負けたら負けです。
ただ、政治は(政治というとあの世界を思い浮かべてしまうなら、行政と言ってもいいし、自治といってもかまいません)どこまでいっても妥協の世界なんですよね。ぜんぶ妥協です。だから、政治の世界に勝者はいない。勝負をしてはいけない世界なんでしょうね。政治というのは。けど、政治問題というのは人の命に、生き方に関わってくる。勝負がかかってくるわけです。
このあたりについては、いろいろ思うところがあるんです。で、鍛冶さんに触発されて記事を書こうと思ったんですが、あまりに重すぎてギブアップしました。いろんなひとの複雑な思いがありますからね。書くのはつらいです。いつか書かねばとは思いますけれど。
投稿情報: Account Deleted | 2010/09/06 06:00
自民党?民主党?菅?小沢?
利権が移るだけで、一般人には何もなし。
どちらも正しいんじゃなくて、
どちらも間違えてるんじゃないのですか?
世界も社会も間違えてて、
自分達はその間違いを構成する一部と
考えるのも面白いと思います。
そして、それに嫌気が差した潔癖症の
指導者が、核ミサイルのボタンを・・・
そんなSF小説があったような記憶があります。
鬼束ちひろさんが「月光」が
大ヒットしたのは、多分みんな、
わかってるんでしょうね。
投稿情報: Account Deleted | 2010/09/14 22:29