2010/01/02 14:25:40 Kenn's Clairvoyance/ 江島健太郎
『ネオフィリアの生きる道』 より引用
[QUOTE]kennより:
経済学は、一説には「人々の幸せを最大化するための効率的な配分を考える」ための学問だという。しかし、「幸福(あるいは不幸)とは何か」という定義については、驚くほど議論の余地がある。たとえば、途上...[続きを読む][/QUOTE]
人間というものは「足る」を知らない存在である。決して現状に満足することなく常に新しい何かを捜し求めるもの。常に「もっともっと」と言い続けるもの。人間というものがとても不安定でその欲望に限度がないという点で、私は上記ブログの江島氏の意見に同意します。そして、そのこと自体を変えるよりも、それはそれでそういうもんとして存在するのだと受け止め、それを前提にした上で、よりよいあり方を考えていくしかない、というその考え方にも同感です。
自然界にあって、人間という存在は、特殊である。特殊というよりむしろ、「ヘン」である。いろいろな本を読んで、私もそのように考えています。
精神分析学者で、「唯幻論」の提唱者、岸田秀は、人間が「ヘン」なのは、人間がぶっ壊れた存在であるからだという。本能が壊れてしまったのが、人間という生き物なのだそうだ。ぶっ壊れているから不安定なのだ。不安定だから不安なのだ。不安定だから「足る」ことを知らない。常に常に前へ前へと前のめりに進み続けないと倒れてしまう。動き続けていないと倒れてしまう。ひとつところで安定していることがそもそもできない。
現象学者の竹田青嗣もまた、人間存在は不安定であるがゆえに満足することを知らないとする。彼はそれを欲望の現象学という。
経済人類学者の栗本慎一郎もまた、人間の欲望には限界がないという。余剰を生み出し、それを蕩尽することが人間社会の本質であるという。
言語学者の丸山圭一郎は、人間の言語は恣意的なものであるとする。言語には根拠はない。つまりそれはいい加減極まりないものである。どうにでもなるようなふわふわしたもの。しかも言語というシステムには実体はない。モノとして、客観的な物体として存在するものではない。人の脳内にあり、そして人と人との間に話し言葉(パロール)や書き言葉(エクリチュール)として存在するもの。誰かが決めている訳ではなく、人と人との間になんとなくの共感として存在するもの。とても曖昧で、その意味は全てそれを受け取る側の解釈にゆだねられるもの。人間存在を規定する言語というものは、とてもヘンなものであるのだ。
私なりに解釈すると、認識とその対象である客体が決して一致しないがゆえに、人間は安定することができない。常に欠落を感じる。自分自身と自分を取り囲む現実との間にギャップを感じ、それを埋めなければいけないという強迫観念にかられている。 人間の外界認識そのものが、客観的事実とは永遠に一致することのない虚構であり、恣意的解釈である。人間の意識そのものが仮想的な、バーチャルワールドなのだ。
その現実とのギャップを埋めるために、人間は求め続ける。自分を安定させてくれる何かを。人間とははじめから欠落した存在なのだ。
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