中川淳一郎氏の本、『ウェブはバカと暇人のもの −現場からのネット敗北宣言』を読みました。
インターネットは第三の革命だとか、ネットが広告の在り方を変えるとか、すごいことのように言われているが、ウェブの実態は、くだらないコメントや炎上する無責任な批判や情報価値のない日常の日記など、ろくでもない言葉で溢れている。ウェブは便利な道具ではあるけれど、社会を劇的に変えるような素晴らしいものではない。 そんな主張がされている。
まあ同感だね。所詮は道具だという意見には賛成だ。ウェブを使う人間の数が多くなれば、いろいろな書き込みがでてくるのも当たり前だろう。世の中、常識的な人間ばかりではないことは、当然のことではある。ある意味、常識?
リアルな人間世界が多様なのだから、ネットの世界にそれが反映されるのは当然こと。ただし、ネットにどっぷりつかって大量の情報に触れ、かつ大量の情報を発信しているユーザ集団に暇人が多いということが、なにかと問題を生んでいるのかもしれない。
しかし、ある話題に対して過剰反応を示すというのは、何もウェブの世界に限ったことではない。先日の新型インフルエンザの件にしても、一時はどこの薬局でもマスクが売り切れで手に入らなくなったが、増産により販売を再開したころには、すっかりマスクをしている人を見かけなくなってしまった。
ネットに投げ込まれた情報は、玉石混交である。そのとおり。ゴミの方が多いかもしれない。しかし、どんな情報源にしたところでそれは同じことだろう。昔、あるSF作家が「SFなんて子供だましで、文学としての価値は低い」というような批判に対して、こんな話しをしたそうだ。「さよう。SFの99%はゴミである。しかし考えてみたまえ。それが文学だろうと音楽だろうと状況は同じではないか。」
そしてまた、衆愚政治のリスクについても、それが議論されたのははるか昔のギリシア時代にまで遡るのだ。今の我々が民主主義政治をとっているということは、人間というものが進化していないことを意味するのだろうか。
衆愚の危険はあっても、民主主義を基本とするからには、意見の多様性は確保されるべきだろう。多様性の中から見出されるバランスを危なげにとりながら、先へと進むことしかできないのではないだろうか。
ネットは、確かにそれそのものが素晴らしい訳ではないかもしれないけれど。使う人間次第、そして使い方次第なのだと思う。おそらく著者もその点に対しては同意してくれるだろうとも思うのだが。
それにしてもネットにどっぷりつかっている人と、そうでない人の間に、ある意味、言葉さえも通じないようなコミュニケーション断絶が生じ始めているのかもしれない。
YouTubeの利用者が確か1,800万人くらいいて、ニコニコ動画の会員も1,200万人くらい、ミクシイの会員が1,500万人くらい、グリーのユーザも1,000万人を突破したそうである。ブログを書いている人の数は、3年ほど前の総務省の調査では800万人くらいとの結果がでていたと記憶している(曖昧な記憶ではあるが)。これらの数字を単純合計すると、スゴイことになってしまうが、おそらくは大部分が重複した利用者なのではないだろうか。ネットであれこれ会員登録するようなユーザは、1,000万人くらいいて、その中でアクティブなヘビーユーザは1割とみて100万人程度といったところであろうか。
人口の1%だ。う〜む。ブログを週に1本くらい書く人の数はもう少し多いような気もする。
ネットは見るだけで自分では発信しない人の割合は、まだまだ高いと見るべきなのだろうか。でも、今の高校生とか中学生とか、若い世代だと、全然違うことになっているような気がするね。
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