ロバート・スコーブルとシェル・イスラエルの共著「ブログスフィア」という本を今読んでいます。4分の3くらい読んだところですが。「アメリカ企業を変えた100人のブロガーたち」という副題がついています。原題は "Naked Conversations"。
企業のマーケティングにとって、社員個人によるブログや会社としての ブログが顧客との双方向のコミュニケーションを強化する上で重要になるんだ、という内容です。
マイクロソフトの社員であるスコーブルが、個人的に始めたブログで会社のことをあれこれ書きつづったことにより、「悪の帝国」の異名をとったマイクロソフトのイメージが変わった、人間臭い親密さが顧客との間に生まれた。
この本の内容は、企業にとってのブログの使い方、という視点から書かれています。なかなか面白かった。世の中は変化しつつあるんだよ。というメッセージはなにか、心躍らせるものがあります。やっぱり今の時代はテクノロジーがエキサイティングだし。大きな変化の渦中にあるんだという実感を感じさせてくれる本は楽しいね。
しかし、企業にとってのみならず、個人にとってもブログというコミュニケーション手段の登場の影響は確かに大きいのだと思います。不特定多数の読者に向かって情報発信を、誰でも簡単に行うことができるようになった。その意義。
個人の発揮できる可能性の幅が革命的に広がった。
オープンな世界。開かれたこの世界。ネットの中では誰もが対等。誰もが平等。少なくとも可能性の上では。
この流れは基本的に良いことだと思う。誰でもモノが言える。自由に。
自由。この自由は大切にしたいと思う。
その一方で、ブログなんて書いても大して読まれやしないという厳しい現実もありますが。
私が、ここではなく別なところで書いている音楽関係のブログでは、記事を一本書いても50〜60人のアクセスしかありません。個人のブログなんてそんなもんでしょう。いや、もちろん1,000人を超える読者を抱えるブロガーがいることもまた事実ではあるけれど。それはほんの一握りのブロガーであることもまた事実。
大した影響力ではないことを実感します。それでも見ず知らずの人が50人も私のブログを読んでくれている、といういいかたもできますが。
そんなちっぽけなブログでも私は続けています。何のためかは自分でもよくわかりません。自分の存在をどこかに残したいのかもしれません。この時代に確かに自分は存在していた。確かに生きていた。その証拠を、かすかなひっかき傷のようであってもこの世に残したいのかもしれません。あるいは誰かとわずかでもつながっていたいのかも。
人間は生きている限り、コミュニケーションを求め続けるものであるとも思います。
言葉を残したい。ひっかき傷を残したい。姜尚中が「悩む力」という本で語っていたように、人間とは相互承認を求め続ける生き物なのかもしれません。
人間にとって、無視されることほど耐えがたいことはない。私を忘れないで。憎んでも覚えていて。という歌がありましたが、忘れられることは、無視されることは、人間にとって存在否定に近いのかもしれない。確かにたとえ憎まれても覚えていられる方が、忘れ去られるよりははるかにマシかもしれない。
どうか私を覚えていて。忘れないで。
どこか悲痛な叫びのように思います。
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