私は「ぶっ壊す」という言葉が好きだ。
なんか、わくわくする響きがある。
ただしそこに込められたニュアンスというものがある。
壊すことが目的ではない。
壊して創りなおすこと。
物理的に破壊することでもない。
物を壊して創りなおすことが趣味なのではない。
「ぶっ壊したい」のは、なんというか、既存の制度とか秩序とか、我々を縛りつける目に見えない何かそんなものである。
暗黙のルールであったり、慣習であったり、特定の組織や集団の常識だったり。
とにかく既存のルールのことだ。
ぶっ壊したい。
縛られたくない。
もっと自由に行動したり考えたりしたい。
もっとも、行動したり考えたりすることの権利としての自由については今の日本は恵まれているのだとは思う。
なんていうか、物理的に排除されたりすることはないだろう。
壊したいのは目に見えないルール。
行動を規制するもの。古い習慣。
ルールにも良い面はある。
あらかじめ選択肢を限定することで、あれこれ余計な事を考えずにすむということ。
選択するという行為を単純化する。
行動パターンを定型化し、固定化すると考えずにすむ。
判断したり選択したりするプロセスを省略することができる。
例えば、朝起きてから出勤するまでの行動なんてものは、たいていパターン化しているものだろう。
毎日、違うパターンで行動している人なんているだろうか。
でも、そのパターン化というものが日常生活のあらゆるところにあふれていないか。
仕事についてもパターン化され過ぎてやしないか。
例えば、野球には基本動作というものがある。
最初は繰り返し徹底的に体で覚えさせられるものだ。
基本なくして応用はないといわれる。
でも、もしプロ野球の選手がみんながみんな基本動作しかしなかったら、そんなもの面白いだろうか?
パターン化されたプレーが繰り返されるだけだったら、そんなもの、面白くもなんともないんじゃないの?
パターンを崩す。
思考と行動に自由を取り戻す。
ラクな方に流れない。
いちいちあれこれ余計な事を考える。
「なんでこうでなきゃいけないんだろう?」
ブレイクスルーとか、創造的破壊とか、そんなニュアンスを「ぶっ壊す」という言葉に感じるのだ。
壊せ。
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