小泉
安倍
福田
麻生
鳩山
菅
野田
これが、21世紀以降の日本のリーダーたち。(内閣総理大臣一覧)
思えば、民主党政権の誕生は2009年9月であった。それは変化の始まりであるはずだった。未知の可能性に賭けた国民の選択であったはずだ。それは確かに大きな変化の選択であった。国民はそこから何を学んだか。民主主義国家では主権は国民にある。責任はそれを選んだ国民にある。
選択は正しかったのか。日本の何が変わったのか。良くなったのか悪くなったのか。
個人的に思うのは2009年の政権交代によって、自民党の存在感は希薄化した。あれほど長期に亘って政権を維持してきた政党だが、その影響力は驚くほどに小粒になった。
私は思う。与党にも野党にも理念がない。政治のポピュリズムを深く憂う。
年金にしろ。医療にしろ。消費税にしろ。「負担を増やすと選挙に勝てない」。そればかりだ。馬鹿か???
ホンモノの馬鹿か?
かつて小泉総理はポピュリズムだとして批判された。大衆迎合だと。全く逆ではないかと私は思う。彼には理念があったと。
今の方がよほどポピュリズムだ。
そして、米中露仏韓台と世界各国でトップの選挙が行われる2012年は、世界中がポピュリズムになる。国民に口当たりのいい政策のみが競うように打ち出される。国民に我慢や痛みを強いるような政策は完全に封印される。自国の利益を優先し、他国に対しては一律批判的な言葉が吹き荒れる。全体最適の必要を説く声は消え去り、部分最適の甘言が世界中に蔓延する。将来のために、現在の痛みをともなう改革は不問にされ先送りにされる。つけは先送りにされその借金はかさむ。私はそれを憂う。
ところで話しは戻るが。ばらまき政策と自民から批判された民主党政権誕生は、一方で反小泉改革との一面もあったと記憶している。構造改革への反動。小泉改革が格差社会を生んだという主張。それでは民主党政権に変わって格差は解消したか?
なんともバカバカしい。脱力する。一体、何なんだ?
努力しないで果実を得られる訳がない。
いや、違うな。努力しないで果実を得ることが許されるべきではない。
市場では、安くてよいものが選ばれる。基本的に競争の世界だ。競争することを否定するならば、全ての企業を国営化して、あらゆる商品を同じ品質、同じ価格にするべきだ。テレビにしろ、自動車にしろ、それをつくるのは1社だけ。複数の会社があるとそこに競争が生まれるからだ。画一化され規格化された商品。量産効果でコストは下がるかもしれない。その代わりに消費者には何も選べないようにするしかない。全て統一。均一化。競争してはいけないと言うのであれば。全てをお役所仕事にすればいい。みんなが国家公務員になればいい。それも競争しないようなかたちで。差が出ないように。貧富の差もなくすためなら、いっそあらゆるものを配給品にすればよい。みなが同じものをもつ。
そんな世界に住みたいか?
競争がいけないことならば、オリンピックは否定されるべきだ。甲子園もそうだ。皆が一緒でなければいけない。そうでなければ競争になる。
だが競争を肯定するのであれば。競争は公平に行われなければならないだろう。それはフェアでなければならない。努力せずに果実を手にすることを認めてはならない。
それがあたり前だと思うのだが。さて?
既得権益の話しだ。
2009年の政権交代の頃に投稿した記事がこれだ。
当時は、実績のない与党の誕生に期待と不安が混在していたと思う。しかしそれでも国民は変化を選んだ。リスクをとって変化を選ぶというその意識、その姿勢に、私はこの国に対する小さな希望を見出していたように思う。民主党政権に対する希望ではない。私の希望は変化を選んだ国民意識に対するものだ。
国民の望んだ変化への期待に対して民主党政権は応えたのだろうか。子供手当ては軌道修正はあったものの実現した。高速道路無料化も修正はあったが実現した(来年度は廃止することになったが)。だが最も肝心な税金の無駄遣いはどうか?大きな改善がみられたとは思えない。年金、医療、介護等の社会保障制度の改革は?放っておけば崩壊することへの対策は?
そして一方で私個人の国民意識の変化に対する期待についてはどうだったろうか?政治参加意識は高まったのか?「1番じゃなきゃだめなんですか?2番じゃだめなんですか?」なんていう事業仕分けのパフォーマンスはそれなりに話題になった。八ッ場ダム建設もメディアにとりあげられ、TPP参画についても大きく取り上げられ、尖閣諸島での中国漁船との接触事件など様々な政治問題についての関心は多少なりとも増えているのではないだろうか。マスメディアとは別のネット上で、掲示板で、ブログで、Twitterで様々な問題について取り上げられ語られるボリュームが増えたように感じる。(無論、そこには米国の陰謀説などあやしげな諸説ぷんぷんネタ話しも含まれているのだが。)しかしそれら国民の声、国民による議論は政策には一切反映されていないように思われる。民意を政治に反映するしくみとしての選挙制度の限界が露呈している。と思う。ネットというオープンな場をもっとうまく使うやり方がきっとあるはずだ。合意形成のしかたが問題なのだ。
しかし。上に書いてきたような、政権交代にまつわる云々を全てリセットするような1年であった。津波が全てを押し流し、福島原発はそれまで目をそらし続けてきたリスクを見える化してしまった。円高は輸出企業に大きなダメージを与えている。欧州の財政危機が金融不安を通じて貸し渋りを招こうとしている。更に追い討ちをかけるように朝鮮半島の軍事的緊張が高まっている。
まさにリセットの1年であった。波乱の年であった。
リセットとはやり直しのことである。やり直すのだ。改善も、改革も、どちらも必要なことであると私は思う。
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