ネットによって、私たちのコミュニケーションのやり方は変った。Facebook、Twitter、mixi など様々な手段により多様化した。それは、デスクトップPCやノートPC、ケータイやスマートフォンなど、ネットにつながる端末の多様化によってさらに押し進められている。
そしてその変化は、子供の頃からそれらネットデバイスを当たり前のものとして育ってきたデジタルネイティブ世代の若者にとっては、はじめから当たり前のものであるがゆえに、変化ですらない。彼らデジタルネイティブにとっての人間関係というものは、それ以前の世代である私のようなオールドタイプとは異なるものであるだろう。
それがどう違うのか知りたい。
そしてそのコミュニケーションの変化が、お互いの意見の違いを認め、その上できちんと議論をし、合理的な結論を導き出してゆくスキルの向上につながるものでありますように。ネットというオープンなコミュニケーションの場が、そのように機能していくように、そんな方向に向かっていきますように。
様々な異なる意見、異なる価値観の存在を認め、多様性を肯定する方向に向かっていきますように。
そしてその異なる意見を尊重した上で、大人としてのまともな議論を通じて方向性を決めていく。そんな社会が実現しますように。妥協を知らぬ、子供じみたガチガチの原理主義ではなく、現実に即したバランスのとれた結論を見い出してくバランス主義の社会に向かっていきますように。
多様性の中から意見を集約していく技術を見つけ出すプロセスを、オープンなネットが後押ししてゆきますように。
ここ、ブロガーズネットワーク翼というブログポータルで、私は直接会ったことのない方たちとコミュニケートし、友人或いは知り合いという人間関係をつくった。その中では、普通じゃできないような相当つっこんだ議論も体験した。このような人間関係は、インターネット以前のニフティなどのパソコンネットワークの頃のものと近いのかもしれない(私は経験してないですが)。デジタルネイティブの感覚はこれに近いのだろうか。
或いはネットの人間関係としては、実際に直接知っている仲間同士でリアルの延長でネットでコミュニケートしていることも多いようだ。やはりこちらがネイティブの主流なのだろうか。この場合はコミュニケーションの質の変化というよりは量の変化であるように思われるが。
3月11日の震災をひとつの契機として、コミュニケーションのあり方について書かれたブログを以下に引用します。
kasttbsさんのブログ「モノとプラットフォーム(8)-コミュニケーション」より引用
前回のこのシリーズからずいぶんと間があいてしまいました。おそらく、一生の間に二度と経験することがないであろう(そうあってほしい)大震災は、これでもかというほど多くの教訓を残しました。被災や被害に直接関係のない地域の人々も、なんらかの影響を受けています。これは日本の有事なのです。平時には話すことも交流することもなかった人同士が、コミュニケーションすることを足がかりとして復活へと歩み出しています。
よく「人は一人では生きていけない」と言われるがまったくそのとおりで、このような有事の時にこそそれを痛切に思う。コミュニケーションとはそのことだ。社会生活そのものでもある。生身の人間として話す、電話をする、手紙・ハガキで知らせ合う。これがITが普及する以前のコミュニケーション。そして今の時代は、メールとブログ、twitter、mixi、Facebookといったソーシャルネットワーク(SNS)もその道具となっている。
どれも言葉があり、ニュアンスこそ違えども感情も伝えられる。年代や環境によってそれらを使いこなせるかどうかは問われるが、少なくともコミュニケーションの選択肢は、ぐんと増えている。
マスコミはマス・コミュニケーションの略語だが、これはコミュニケーションなのだろうか。情報を大衆に大量に提供するのだが、あくまでも一方向の流れであり、とてもコミュニケートしているとは言えない。まして、そのバックボーンにビジネスとしてクライアント(広告主)が存在する限り、どちらを向いてその情報の取捨選択をしているのかわからない。
モノ時代の限られたコミュニケーションは、IT革命によりインターネットというプラットフォームができたことで、安価に、ほぼ同時に双方向のやりとりができるようになった。リアルかそうでないかに関わらず、この双方向こそがコミュニケーションの本質だろう。
つまり、インターネットの出現は、マスコミの矛盾をついたのだと言える。ネットワークというインフラにぶら下がっているにせよ、個人が世界中の人々を相手とするパーソナルコミュニケーションを持ち得たのだ。
ネット利用のコミュニケーション(これをWebコミュニケーションと呼ぼう)は、決して既存のコミュニケーション手段にとって変わるものではない。この有事でわかったことは、当たり前のようだが、まずリアルのコミュニケーションが最も重要であるということだった。電話は携帯電話を含めて通じない事態を招いた。
一方、Webサイトやブログ、ソーシャルネットワーク、特にtwitterはかなりの部分でコミュニケーションを実現できた。避難場所の被災者の方たちとは直接コミュニケーションできなくても、そこをフォローする自治体やボランティアの情報のやりとりには大きな役割を果たしている。
モノ時代とプラットフォーム時代のコミュニケーションは互いに補完関係にある。twitter、FacebookのようなSNSコミュニケーションがどこまで根付くかは未知数だ。デマや風評の拡散など負の部分もあることは否定できないが、それはリアルのコミュニケーションやマスコミでもあることだ。SNSが当たり前、という世代が主流になる日もそう遠からず来るのではないだろうか。
Web上では、チャットのような会話コミュニケーションや、テレビ会議、Skypeといった実際に顔を見ながらのリアルに近いコミュニケーションも可能だ。スマートフォンやモバイルパソコンを利用すれば、場所も選ばない。
東電原発事故により企業の節電機運が高まり、「在宅勤務」が現実のものとなりつつある。リアルのコミュニケーションでなければ不安や不信を感じていた企業や取引先も、幸か不幸かこれを契機としてその効率を試し始めるだろう。
ここではコミュニケーションの形態のみを述べ、コミュニケーション自体の内容については触れていない。ただ、この国の最高責任者、政府、東京電力、原子力保安院等々の国民とのコミュニケーションは、その手法も含めて最悪と言わざるをえないことだけは確かだ。それにくらべ、数々の著名人、そして天皇皇后両陛下のコミュニケーションはどれだけの人を勇気づけているか計り知れない。
via kasttbs.bloggers-network283.com
もうひとつ、震災とコミュニケーションについて書かれたブログを引用したい。
阪神・淡路大震災を経験してきた関西人としては、今回の地震はその時とははるかに“桁違い”で圧倒的な情報量と伝達速度でこの震災の情報を得られたと感じています。
最初の大きな地震の直後からNHKを視聴していた私はその津波の中継というリアルタイム性の恐ろしさと余震でしばらく穏やかに過ごすこともありませんでした。気がつけばデジタル放送、ハイビジョンと15年前とは違います。
携帯電話のエリアメールなどで受信する緊急地震速報は、15年前には存在していませんでした。それよりも、携帯電話を複数持っていたり、同時にテレビをつけていたりすると、同時に鳴り響くその音に何度も驚かされてしまったことが記憶に新しいです。そして地震が来る!という心構えができるのも今回ほど体験させられたことはないかと思います。
そして、一番大きな違いはインターネット。特にtwitterやUstreamを中心としたコミュニケーション。インターネットを通じて市民が「#edano_nero」などに代表されるように官房長官に向けてのメッセージを送ったりすることや、ひとりひとりが各地の情報・状況などを投稿しています。まさしくひとりひとりのツイートがメディアの役割をしているとも言えるでしょう。twitterはその中でも情報の伝播力が強い、速報性が高いメディアとして以前から考えられてきましたが、今回の地震でもその様子を感じました。と同時にデマも広がりやすいことは言われています。
しかし、このデマに対する火消しも非常に素早い動きを感じられました。それはタイムラインという概念でしょうか。すぐにデマに関する情報も回ってきます。つまり、「人の噂も75日」という言葉もありましたが、現在では人の噂も7.5時間かもしれません。いや、もっと速いでしょう。
デマが広がるのも速いですが、それを打ち消すのも速い、と少し前向きに考えることも出来ます。そのデマに左右されない、世の中の動きに左右されない、というインターネットユーザーが増えれば、状況は改善していくのではないでしょうか。今回の震災での教訓をもとに。
次に紹介するムービーはジョークっぽく見えますが、買い占めについて訴えているビデオだと思います。面白おかしく、というふうに見えるのでバイラル性が高く拡散しやすいでしょう。バイラル性が高いクリエイティブを作って、自浄作用を働かせるのも一つの手だな、と思いました。(引用者注:もとのブログではここに『帰ってきた「買占めするならするならカネ送れ」』という動画が貼られているのですが、その動画は利用規約違反のためYouTubeによって削除されたためここに再現することができませんでした)
リブログありがとうございます。
デジタルネイティブ世代のコミュニケーションは確実に、それも猛スピードで変わってきているのだと思います。鍛冶さんよりもオールドなぼくにとって、それを知ることは恐怖でもあり楽しみでもあり。
ニフティ(ニフティサーブ)もやってましたが、今のほうが比べものにならないほど刺激的です。サイクリングとF1くらいの違いはあると思います。
投稿情報: Account Deleted | 2011/05/15 22:04
え?そうなんですか?サイクリングとF1???
パソコン通信って、まだパソコンもってる人が少ない時代のコミュニケーション・プラットフォームだったと思うんで、かなり濃いコミュニティだったのだろうと思っておりました。熱い場だったんだろう、と。
ただ、逆に言うと狭い世界ではあったでありましょうから、その点で今のインターネット世界のとんでもないオープンさとはだいぶ違っていた。ということなのでしょうか?
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2011/05/16 00:06
情報は濃かったですよ。
ダイヤルアップ接続の時代ですから、同じ趣味の人たちがゆったりと仲良く語り合おうね、という感じだったのです。クローズドな掲示板みたいなものです。こみいった話はまだまだ「電話が一番」でした。
現在のSNSのように、外野もいて(オープンで)スピード感がある(ほぼリアルタイムな)コミュニケーションはF1みたいなものです。
まぁこれは、どちらが良いのかということではないのですが。
投稿情報: Account Deleted | 2011/05/16 20:14