「久々に「原発反対!」と叫んでみました。」 寝たふりモードでネタ拾い by 松本淳 より引用
epub形式の「電子書籍」をひとつ作成しました。こちらです。
ダメなシステム、マシなシステム ─ なぜ原発が問題なのか、そして次へと
iPad、iPhoneその他のタブレット端末やFirefoxにアドオン(ePubreader)を加えた環境で閲覧できます(そのはずです)ので、ぜひご一読ください。
via mazmot.bloggers-network283.com
松本さんのブログにある反原発に関する電子書籍を読ませていただきました。とても長いもので少々ならず疲れましたが、骨のある文明批判として興味深く拝読しました。特に後半部分。「4.そもそも巨大システムとは?」以降ですかね。
内容が濃く、大きな話なので、ちゃんと理解できている気はしないのですが、刺激はいただいたので現時点で考えさせられたことをコメントしてみたいと思います。
前半部分は、原発は一部の人にリスクを押し付け、それ以外の一部の人がその恩恵のみを受け取る差別的なしくみであるから許容すべきではない、と理解しました。が、その主張に対しては、それは原発に限った話しではなく、火力発電所にしてもリスクは持っているし、発電でなくても巨大なガスタンクや石油タンク等の設備においても同様であり、それを否定するならば現代の電気と石油に依存した生活を否定することに等しい。そう思いました。しかし、その内容は後半部分において大きく展開します。
技術が社会を規定し、社会が技術を選ぶ。その意見には賛成です。鉄道、自動車といった輸送機関が今の我々の生活を規定している。冷蔵輸送等の技術がなければ、小売のジャスト・イン・タイムであるコンビニは成立しない。電話やインターネットといった通信技術がなければ、今の我々の生活は成立しません。その意味するところは、技術は社会を発展させもするが制約もするということ。そしてどんな技術を発展させるかについては我々がどんな社会を望むのかによって左右されるということ。
うまいこと要約できませんが、続く「自由」についての論考はとてもユニークで興味深いものでした。社会という共同体の中での生活というあり方を、すなわち文明というものを人間が選んだ時に、先の技術をはじめ、政治や法律という様々なルールが同時に不可避的に生まれた。そのルールによって、生きることは様々な制約を持つ不自由なものとなった。それゆえに社会的生活を営む人間という生き物は「自由」を求めるようになった。
「自由」という概念に対するこのような解釈についての私の意見は、現時点では半ば賛成するといったところでしょうか。なるほど、と首肯しつつも、ちょっと待てよ、本当にそうかな?という感じも私にはあります。私にとって、「自由」という概念は、もう少し広く、もう少し深い意味を持っているような気がするのです。社会的なルールに対する反発という点では同意しますが、何か、もう少し肉体的な、というか身体性につながったというか、動物的な、というか、何か生命の根底につながるような意味合いを、「自由」という概念は持っているような気がします。私にとっては。
でも私にとっての「自由」とは何か?ということを具体的に語ることは今はまだできそうもない。私の中で煮詰まっていない。
松本さんの論考に戻ると、原子力発電というものは単なる技術ではなく、政治的な要素を含む社会的な「巨大システム」である。それは社会的に巨大であるがゆえに、硬直的であり、自由を制約するものであり、利権を生むものであるがゆえにその変更、修正、廃止を強く拒むものである。そうであるがゆえに新しい技術の台頭を阻害し、変化を拒絶するものである。それだから、社会のこれからの変化に対して原子力発電は障害となるものである。そのように私は理解しました。
ここの部分について、私は賛成できません。その理由は、硬直的で社会の変化を阻む巨大なシステムというものは、なにも原発に限ったものではないと思うから。恐らくは問題をとらえる位相が違うからだとおもいますが。現在の法体系、政治システム、資本主義という経済システム、そのような社会的なシステムによっても我々の生活は制約を受けている。原発だけが制約として特別なものだとは思えない。原発と軍事産業だけが松本さんのいう巨大システムではないような気がする。自由を阻む硬直的な社会システムは、他にもいろいろある。
社会的な制約という視点から批判するならば、その対象は原発だけではない。
私にとっては、原発の問題はもっと技術的な問題のように思われます。今回の東電の事故によって、原発というものは思いのほか、コントロールできていないものであることが明らかになった。そのように思います。コントロールできないから不安を呼ぶ。現在の状況、現在の危険度合いについて、国民にわかりやすく伝えられていない。そのことが問題だと思う。わかりやすく説明できないということは、説明者がその問題の本質をちゃんと理解していないことを意味する。そう思う。つまりは当事者達が今、起こっている事態を正しく理解していないのではないか。それに対する適切な対応がどういうものなのか適切に理解していないのではないか。そのような疑問、そのような不安を我々に与えている。それが現状ではないか。
コントロールできないものに対して、我々は不安を感じる。
そのリスクが正しく評価できない事態に対して、我々は不安を感じる。それはそうでしょう。どこまでいくかわからないならば。
原子力発電に関しては、東電も、政府も、何か悪い情報を隠しているのではないか。そのような疑惑を抱きます。対応がどこかちぐはぐで信頼感がいだけない。なにかおかしいと感じる。なんかヘンだ。
ちゃんとした説明ができていないからだと思う。どの程度に危険なのか。それをわかりやすく説明する責任は政府にあると思う。それは松本さんがおっしゃるように、原子力発電というものは、ただ東電だけの問題ではなく、政府も共犯関係にあると思うから。原発に関しては、どこか、偉い人がリスクはあっても結局は安全だと判断したうえで運転しているものだと思っている。それは盲目的信頼だった。それが今回、明らかになってしまった。原発をちゃんとわかっている人が、安全だと保証しているから使っているものだと思っていた。ところがその保証している人が誰なのかわからないのだということが、今回、わかった。
この問題の責任をとるべき人が誰なのか。それを不明確にしてしまう社会的システムがある。共同責任にしてしまう。そういう問題がある。松本さんのこの論考はそのようにも解釈できます。今は誰もが菅直人という人の責任を問うているが、問題の根本は彼の責任ではない。明らかに。彼の責任はあくまでも地震による原発事故が起こってからの、その事後処理のまずさについてのみです。原発そのものが彼のせいである訳ではない。
原発の問題はもっと根が深い。松本さんはそう指摘している。我々一人ひとりの選択の問題である。
さて、それでは原発に対する私の意見はどうなのか。実は大いに迷っています。今。
少し前までは、必要悪ではないかと考えていました。今更、原発を否定して我々の電力依存生活は成り立たない。だから、我々は今の生活を維持したいと思うならば、原発と共存する以外に選択肢はない。そう思っていた。
だが今は。私は迷っています。今の生活を続けるためには必要悪だという思いはまだ持っていますが。今回の件で明らかになった東電のいい加減さ。政府の無責任さ。要するに誰もこの問題に対して責任をもっていない現実を目の当たりにした現在、こんないい加減なやり方で、コントロールできないパワーを扱っていいのかという疑問が拭いがたくある。安心させて欲しいと切に願う。誰か、わかりやすく説明してくれ。そんな気分。
原発推進派も、原発反対派も同じように信頼できない。つまり誰も信頼できない。そして自分で判断するだけの知識も理解もない。そんな状態で、実際には原発に依存して生きている。その居心地の悪さ。本当正直にいって誰を信頼していいかわからない。安全なのか危険なのか。いや、危険なのは間違いないけれど、その危険の程度が今の生活を維持するために必要な許容範囲なのか、それともそれを超えているのか。
危険だからNGだという立場は私はとらない。それは松本さんも指摘しているように、現代社会はリスクを避けては維持できないから。自動車も鉄道も飛行機も、確かに今そこにあるリスクである。リスクを許容しなければ我々は生きられない。それらのリスクと比較して原発のリスクどの程度の危険なのか。その評価が私にはできかねる。
しかし、原発というものが我々にコントロールしきれない存在であって、かつその存在に対して真に責任を持って対処する人がどこにもいないという現状を考えると、必要悪との思いはいまだありながら、避けられるものならば避けたほうがよい。そんな考えに傾きつつあります。ちょっと結論はだせない感じなのですけれど。
結局は経済性、コスト効率の問題として判断するべきだと思うのですが、その計算上で、リスクの規模が評価できない。その評価を一般ピーポーの私にできるはずもない。危険さの度合いがわからないものは、とりあえず避けといた方が無難。そんな立ち位置でしょうか今の私は。
松本です。まずは、読みづらい文章を丁寧にお読み頂いてありがとうございます。そして、まとめていただいた部分を読んで、だいたい言いたかったことが伝わったのだなと感じました。安心しました。
「原発だけではない」ということについては、まさに私が言いたかったのはそういうことです。ただ、「原発だけではなく、あらゆるものがそうだ」とは言いたくない。逆に、原発を含む「悪いシステム」と、夢のような「素晴らしいシステム」があるとも思えません。そういう対比ではなく、表題にあるように、「ダメなシステム」と、多少は「マシなシステム」があって、「次はよりマシなものを選ぼうよ」という提言なんですね。そして、私の視点からは、より分散型で小さなシステムの集積としての大きなシステム(つまり人間社会)が、巨大なシステム1つで解決しようとするよりも「よりマシ」ではないのか、ということなんです。
あと、「自由」が、「何か、もう少し肉体的な、というか身体性につながったというか、動物的な、というか、何か生命の根底につながるような」という感覚に共感します。そういう深いものであるだけに、論理的な説明が跳ね返されるのですね。それでいろいろな寓話やら神話を使わざるを得なくなります。私の書いた豚の寓話も、そういう意味で、ひとつの喩えでしかありません。無数の喩えの中で、ぼんやりと浮かび上がってくるのが人間の根っこの部分じゃないんでしょうか。そういう作業というのが、案外と文学とか、芸術の営みであるのかもしれず…
投稿情報: Account Deleted | 2011/04/23 22:41
松本さん
コメントありがとうございます。とてもうれしいコメントです。
もともとの松本さんの論考が、とても大きなテーマを取り上げているものなので、その理解としてそんなに的はずれでもないとご本人にいっていただけて、とりあえずほっとしています。
私の理解、そしてまとめ方も大雑把なざっくりとしたものだとの自覚はありますので。そしてまた当然ながら私自身の興味関心による偏向(バイアス)もかかっているまとめ方であるものなので。議論がかみあっていたなら、うれしい。
コメントいただいた、「よりマシなものを選ぼうよ」という点、それには同感です。より分散型のシステムの方が望ましい。それはよくわかるし私もそう思う。
それゆえに議論のポイントは原発という現代社会に組み込まれた巨大なシステムを適切にマネジメントできるのか?マネジメントできているのか?というその評価になるのかと思います。
それは大いにあやしい。事後処理における政府の対応、東電の対応については適切に危険に対処しているとは思えない。不安を感じる。
なしで済むならなしにしたい。そこまでは同意見ですね私は。で、「なしにするのか?」という点。やめられるのか?
やめるにも大きな痛みが伴う。その硬直性、その大きな慣性の存在。それは松本さんのご指摘のとおり。社会に組み込まれた原発というシステムはやめることもまた難しい。継続する以上に難しい。
それでもやめるのか?
現実的にやめられるのか?
松本さん、おっしゃるとおりですね。そこから先はロジカルに結論がでない。そのとおりだ。リスクの度合いが許容範囲内か許容できない程大きいのか。誰もが納得できるような数字的判断を示すことができない。できていない。
それって、言い方次第では、計り知れないリスクがあるという言い方もできる。
自らではコントロールできない原子力というパワーを利用することは危険な刃物を小さな子供に持たせるようなもの。
となると判断基準は、果たしてコントロールの範囲内なのかどうなのかということになる。
松本さんの議論の筋は、実にど真ん中ですね。本質ついてます。
そこのところの説明責任を誰もとっていないように感じる。根拠の不明な感情論のように感じられる反対派の意見と同じくらい、推進派の意見もまた信用できない。コントロールできている、と明確に信じられる根拠を示していない。そういうことか。
だからやめようよ、と言われれば。そうだねやめといた方がいいね、って。ああ。説得されちゃった。
自由について。実は私にとってこの「自由」という概念はとても大事なテーマなんです。大袈裟に言うとアイデンティティに関わる問題。豚と猪の寓意でいえば、私は猪でありたいと強く憧れるのです。
どうしたらそれが可能なのか。どうしたら猪になれるのか。その憧れは私の中に強くある。
自分自身を強くすること。自分の芯を太くすること。今、いうとすると、そんなことがアプローチなのかな?
とにかく、松本さんの問題提起は、ものすごく大きなテーマをつきつけるものだと、それは感じました。
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2011/04/24 05:37
原発の安全対策について警告した1995年の「核施設と非常事態 -地震対策の検証を中心に-」という論文について。
http://sanken.bloggers-network283.com/2011/05/%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E7%94%BB%E9%9D%A2_%E4%B8%80%E6%99%82%E7%9A%84%E3%81%AB%E7%B8%A6%E9%95%B7.html
上記、隅本氏のブログで言及されている、今から16年前に阪神大震災をきっかけに原発の地震対策を見直すべきだと主張した故人高木仁三郎氏の論文を読みました。
原発の設計時における想定がマグニチュード6.5であること。阪神大震災のマグニチュードが7.2とそれを上回っていたこと。また、それぞれの原発の耐震設計時に想定されている地震の加速度を阪神のそれが上回っていたことから、原発の地震対策を見直すべきだと指摘しています。数字で具体的に明らかにしている。
1995年の「日本物理学会誌」Vol.50に掲載されている。
福島原発事故後の今、読むとそれが驚くほど適確な指摘であったことがわかる。
論文のタイトルは「核施設と非常事態 -地震対策の検証を中心に-」高木仁三郎。
検索すると http://ci.nii.ac.jp のサイトで閲覧可能です。
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2011/05/15 08:12