Facebookについて、3つの記事を書いてきましたが、どうにも歯切れが悪い。何を言いたいのかよくわからない文章になっている気が自分でもする。それは私自身の立ち位置が微妙に揺れているからだと思います。
ひとつにはFacebookというサービスに対する国内と海外との温度差。海外においては確かに勢いがある。しかし、海外で流行ったものが必ずしも日本で流行るとは限らないのは、これまでにもGoogleなどで経験済みであるし、逆に日本でのみ流行っているYahoo! Japanの例もある。国民性の他にも競合の状況や先行優位の状況、それは例えば2チャンの存在とかケータイの普及度合いとかいろいろな要素が複雑に絡み合っている結果なのだろう。その分析は私の手にあまる。シンプルに説明できそうもないので海外との比較分析はやめておこう。
もうひとつ、Facebookに対して私の立ち位置が微妙になる要因がソーシャルなサービスに対する期待感だ。ネット上での人のつながりは、これからも広がってゆくであろうし、これまでとは変ってゆくだろうという予感がある。それはこのブログのテーマでもあります。だがFacebookがその大きな変化をリードする存在であるかどうか。その点について、私はネガティブなんだな。
けれども可能性は感じている。Facebookのオープンなところに可能性を感じる。ブログやTwitterとリンクして様々な情報を一覧表示するそのオープン性。
ネットの様々なサービスを利用し、あちらこちらに拡散した私の書き込み。私の思念のかけら。それらの断片を、私という軸で統合できるなら。それは「私」に関する情報の統合として、これまでにないサービスでありうる。例えば、他人のブログに書き込んだ私のコメントのような。ネットの海に拡散した私の痕跡を再統合するようなサービスであれば。
そのことについては、過去にこんなことを書いている。
私は自分の過去についてのこだわりが強いのだろうか。自分が過去に何を見聞きし、何を感じたのかについて、記録を残したいという願望が、私は強いのだろうか。
自分の情報を統合するサービスとなるのであれば、Facebookにはこれまでにない可能性があるようにも思うのだ。
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