今年の思潮を総括する座談会での宮台発言です - MIYADAI.com Blog
宮台真司氏の発言まとめを続けて読んでいます。『米国の共和主義は、再配分主義への反対でもなく、行政官僚最小化のイデオロギーでもない。単に「州の仕事であっても、連邦政府の仕事ではない、それが合衆国憲法の立憲意志だ」と主張するだけ。つまり「共同体的自己決定主義」なのです。』
『米国には民間療法以外には関わらない連中が山ほどいて、彼らから保険料を徴収するのは普通に考えて自明ではないけれど、この非自明性が、個人の多様性よりも共同体の多様性に由来すると主張するのがサンデルです。とはいえ、かつてと違い、共同体の境界がぼやけ、個人が複数の共同体に多重帰属するのも普通です。その結果「お前は共同体を尊重せずに生きていけると思うのか」といった物言いが単にウザイものになりつつあるという事情が、米国にもあります。』
『ここ十五年を振り返ると、道徳というかシビック・ヴァーチューがベースにないと資本主義は回らないとする感受性、ないし、資本主義の否定より資本主義が社会を滅ぼさない条件の肯定が大切だとする感受性が、定着してきました。 経済回って社会回らず、であれば、やがては経済も回らなくなる。』
うーん、なるほど。共同体の復権てのが大切なんだろうな。
via kobab.bloggers-network283.com
上記は、koba_bさんのブログからの引用です。記事のタイトルは「米国の右翼・共和主義って日本の右翼とは違うのね、なるほど」。
正直言って、自分は政治にはあまり関心がないので、政治的なステートメントをするつもりはありません。ただこの記事に触発されて考えたことを書いてみます。テーマとしては、政治と経済の両方に関わること。てゆーか、自分的にはむしろ哲学の問題かな。
とか、書きだしておいてなんですが、う~ん。この記事の内容、政治に疎い私にはちょっとよく理解できません。恥ずかしながら、右とか左とかって何なのかがよくわかってないんです。保守/革新、資本主義/共産主義、小さな政府/大きな政府。なんか、そんなイメージなんですが、どうも、ちょっとよくわかんないんだな。
で、「共同体の復権」。確かに世の中は多様化の方向に向かっているのだと考えています。それがいつ始まったものなのかはよくわからないけれど、豊かさを目指すことに伴って、多様化は逆らうことのできない大きな流れとしてある。
多様化の結果として共通性が確立しにくくなっている。コモンセンスが小さくなっていく。共感、ないしは共通感覚の範囲が狭まっていく。価値観の多様化は共同体の成立を難しくする。
唯一の真実、ただひとつの正解というものが信じられなくなっていく。答えはひとつではない、という世界。ただひとつの真実はなく、選択肢があるのみ。
それは大きな集団の存在を不安定にし、より小さな集団への分離分割へのドライブとなる。集団を維持するためには、「バラバラの世界をつなぎとめる何か」が必要。
それは、ビジョンなり、価値観なり、哲学なり、道徳なり、夢や希望なり、何かそんなもの。高度成長期の日本が信じていた何か。豊かな未来?アメリカの場合には、自由とかアメリカンドリームといったものか。アメリカンドリームというものは、機会の公平性についての信頼という理解でよいだろうか。それは経済格差の容認であり、成果主義にもつながるものだと思うのだが。(ちなみに、“経済格差=悪”という立場を私はとらないが)
経済システムとしての共産主義がほとんど力を持たなくなり、その一方でリーマンショックという世界的規模での市場の失敗を経験した現在では資本主義万歳を唱えることもまた疑問符がつきまとう。それは「神の見えざる手」という信仰が薄れたことを意味する。
それは、現実に対処していく上で、単純なひとつの原理で全てを解決する訳にはいかず、局面ごとにバランスを見い出していくというオペレーションを余儀なくする。
従うべき唯一のルールが不在の世の中では、その都度ごとに判断することが求められる。神なき世界では常に頭を使い、判断することが求められる。
しかしそうは言っても、いつもいつも判断を求められるのは疲れるし大変だ。やはり人はルールを求める。
より大多数の共感を得られるようなルールが今、求められている。多様化した価値観をとりまとめるためのルールとは、表層的なものではありえない。より根源的で、全ての人に共通する根底に触れるものでなければならないだろう。
それは誰もが共感できるような、目指すべき未来の姿じゃないか。理想とも言う。逆に言うと、今は目指すべき未来の姿が見えない時代。失われた未来。
私なんかは、“Love and peace”を目指そうぜ、でいいんじゃないかと思うんだけど。
信仰なき世界。そして、バラバラの世界。それは、トマス・ホッブズの言う、「万人は万人に対して狼」、「万人の万人に対する闘争」状態の世界に向かう。北斗の拳の世界みたいだな。
リブログいただき恐縮です。
自分の生活を守るために自分の共同体を大切にし、それが他の共同体との物理的な争いにならない、みたいなものを志向したいです。
「カラマーゾフの兄弟」のゾシマ長老が語るある人の告白よく思い出しています。
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自分は人類を愛しているけど、われながら自分に呆れている。それというのも、人類全体を愛するようになればなるほど、個々の人間、つまりひとりひとりの個人に対する愛情が薄れてゆくからだ。空想の中ではよく人類への奉仕という情熱的な計画までたてるようになり、もし突然そういうことが要求されるなら、おそらく本当に人々のために十字架にかけられるにちがいないのだけれど、それにもかかわらず、相手がだれであれ一つ部屋に二日と暮すことができないし、それは経験でもよくわかっている。だれかが近くにきただけで、その人の個性がわたしの自尊心を圧迫し、わたしの自由を束縛してしまうのだ。
引用元 http://www.geocities.co.jp/AnimalPark/2935/sonota/karamazof.html
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投稿情報: Account Deleted | 2011/01/05 10:40
コメントありがとうございます。いただいたコメントを読んで、さらに脱線していきますが、法秩序の崩壊したルールなき世界、神なき世界を描いた「北斗の拳」というマンガは、その戦国時代を恐怖と力で抑え込んでいくラオウの国家統一が描かれている訳ですが、それを力ではなく、理念や愛によって国をまとめあげていくような、ルールを再構築するようなストーリーであったら、同じ舞台設定でも全く違ったマンガになったでしょうね。
戦国時代のジョン・レノン、みたいな
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2011/01/08 09:22