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2011/01/27

コメント

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Account Deleted

>その時に思いました。やはり、行列には意味がある。

その意味を確かめるためには、結局並んでみるしかないわけですね。
本も自分の脳で読んでみなければわかるはずがない。
探究心・好奇心が時間や金銭的余裕や忍耐力を上回るかどうかです。
宝くじも確率的にはほとんど無意味ですけど、買わなければ絶対に当たらない。
最終的には価値観の問題になります。

鍛冶 哲也

行列とは評判であるととらえれば、その他人の評価に自分がのるかどうかである、ということですね。

食わず嫌いは自分を狭くする。それは自ら招いた機会損失。

自分を拡大するためにどこまでカネや時間を注ぎ込むか。

そこには、意志や努力が必要ですねやっぱり。努力しなければ前へ進めない。

鍛冶 哲也

お好み村での行列には、多分、理由があったのだろうという推論。ただし、検証はしていない。実際にそこの行列のできる店で食べてみて、うまければ推論が実証できたことになる。

お好み村というのは、しかし商売としては特殊な環境にある。まず、個々のお店ではなく、ロケーションとしての知名度が高いということ。個々の店の経営努力とは別なところで強力な集客力が働いている。放っておいても客が集まるロケーションでは、得てして経営努力は手を抜かれがち。駅の中のソバ屋とかが典型。

そしてお好み村では客のほとんどが観光客であるという特徴がある。つまりはほとんどが一見の客であり、そしてまた2度と来ない客だということ。リピーター化を目指す努力はあまり意味がない。

顧客満足度を高めようという動機がはたらかない。市場競争の原理がうまく機能しないということ。

そんな経営環境においては、安くてうまいものを出そうという努力に対する必要性が薄い。大儲けしようと思わなければ、放っておいてもそこそこ客は来る。「お好み村」というブランドによって。そして、ちょうど私のように、来ては見たものの、店の前で並びたくないという客も一定の割合で獲得できるのだろう。経営的にそれで満足なのであれば、経営努力の全くないお店が成立するという訳だ。客にとっては迷惑な話だ。そして、長期的には「お好み村」という強力なブランドの価値を傷つけていることになる。

ま。ラクして儲けてるヤツにろくなヤツはいないってことだな。

鍛冶 哲也

あ、ついでのコメントしとくと、この話し、ケータイとかインターネットとかが広がるより前のことです。

つまりお好み村という限定条件の中でうまい店を探すということについて、情報検索コストが今よりもはるかに高かった。

本屋に寄って、ガイドブックか何かを買うなり、立ち読みするなりすれば、おいしい店にいけたかもしれない。でも二度と来ないかもしれないお好み村のお店探すために、ガイドブック買わないよねフツー。お好み焼きの値段そのものが千円そこそこのもんだし。

無料のガイドブックなんかもあったのかもしれないが、観光で行ってたのではなく、仕事だったから。それに無料のガイドブックに掲載されてる情報は、広告中心だから。

そんな時代に比べたら、今の時代ってとぉぉってもベンリになったもんだ。ケータイで食べログ検索すれば、ある程度の確率でそれなりにうまいものにありつける。価格帯も含めてだ。失敗するリスクはかなり減っていると思うな。

ケータイというツールとインフラ、クチコミサイトというWebのサービス、実際にそこに書き込まれたコンテンツの量と質。それらの要素に支えられている訳だけど、ホント、そんなサービスがタダで、当たり前のように使えるってーのはすげぇ進化だとオレは思うね。

もちろん、ケータイの料金は払ってる訳だけどさ。その共通基盤の上で、いろんなサービス(サイト)がフラットに並んでいて、好きなように使えてるっていうこの仕組みは、すごいもんだよ実際。

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