時は流れる。流れ去る時間は戻らない。
それが当たり前。流れゆく時をとどめようとして、人は絵に描いたり写真を撮ったり、文章にしたり、ビデオを回したり、記録として体験の一部を後に残そうとしてきた。
しかし時の流れをとどめることはできない。時間は全てを忘却の彼方へと押し流していく。
喜びも痛みも、あらゆるものを時間はゆっくりと、時にはあっという間に過去へと、忘却の彼方へと押し流していく。
それが今この時代、人が忘れ去っても決して忘れないものが現れた。
コンピュータは忘れない。
なかったことにはしてくれない。
全てを覚えている。記憶し続けている。
今日の世界では人の行動の様々なかけらがデータとしてコンピュータに残される。
オンラインショッピングの記録が。クレジットカードでの買い物が。定期券での移動記録が。メールでのやりとりが。レンタルビデオでの記録が。Web上での行動が。ホテルの宿泊記録が。
これまではメモリの値段が高かったために、メモリは貴重なものとして扱われてきた。コンピュータのデータは、取引等の処理が完了後、一定の保存期間の後には消去され上書きされてきた。しかし近年、メモリの値段は過去に比べて劇的に安くなった。ストレージメモリの価格低下によって、コンピュータデータは次第に保存期間が長期化する。或いは消去されずに永久保存される。
データウエアハウスという仕組みは、従来、メモリ容量の制限のために、上書きにより消去してきたデータを、消去せずに蓄積するための装置である。大量にどんどんと貯めていく。消さずに。
過去の記録が次第に大量に残されるようになってきている。この流れは止められない。この流れには逆らえない。
今はまだ、様々なコンピュータに分散した状態で蓄積されているデータではあるが、いずれはそれら様々なデバイスに蓄積されるデータパケットの全てに、個人識別番号を含むヘッダがつけられるようになるかもしれない。
私に関連するデータは、それがどんなものあれ、全て識別が可能になるかも。
そうなると、記録がないためわからないということがなくなっていく。過去を追いかけることが今よりもはるかに容易になる。
あやまちも済んだことでは済まされなくなるかもしれない。
過去のことは水に流して、という訳にはいかなくなる。
人間とはいかにルーズなものであろうか。コンピュータの基準で正確さを求められては物事が立ち行かなくなってしまうだろう。となると、解釈の幅を広く取るなり、ゆるくするなり、なんらかのバランスをとる方法をつくりださねばなるまい。
人間とコンピュータが共存するための方法は、今とはまた違った形になっていくことだろう。
人は過去を水に流して生きてきた。それが流せなくなってしまってはなんだかやりにくくなってしまいそうだ。
水に流すことをコンピュータに覚えてもらうことが必要になるのだろうな。或いは目をつぶるということとか。
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