我々人間という存在はある種の情報処理システムである。インプットに対してアウトプットを返すものである。
そのような存在である我々のあり方を大きく変えたのがインターネット。私は今、こうしてブログを書いているが、インターネット以前の時代にはこのようにいち個人が不特定多数に向けて情報発信をする手段なんてものは皆無に等しかった。
そしてまたインターネットは我々の情報獲得の方法をも劇的に変えた。ネットによって我々は膨大な情報源を手にした。それは従来、存在しなかったもの。その情報量はべらぼうだ。バカバカしい程の膨大さだ。バカバカしいという表現が悪ければ、その量を実感として認識することがほとんど不可能であるくらいの膨大さだ。
その情報量の膨大さによって、我々は従来は考えもつかなかったようなニッチな情報やマイナーな情報にほとんどコストをかけることもなく接することができるようになった。
インターネット以前の時代には、我々が知ることのできる情報というものは、自分で直接見聞きした体験に基づくものとマスコミを通じて間接的に知るものの2つしかなかった。
テレビやラジオ、新聞、雑誌といったマスコミにはそれをつくる人間がいて、何を流して何を流さないかをそれらの人間が決定していた。情報の取捨選択権はマスコミが握っていた。いわゆるプロの編集者がその選択を行っていた。 マスコミに乗せられる情報量には限りがあったために、集めた情報を何でもかんでも全て流すことはできなかったからだ。
その選択過程において、ニッチな情報やマイナーな情報、つまりごく一部の人間しか関心を示さないようなたぐいの情報はマスコミによって切り捨てられていた。闇に葬り去られていたと言ってもいい。
インターネットの登場によって、そうしたマスコミによるフィルターのかからない膨大な情報が我々の前に提示された。嘘か真かは別として、我々は自分の関心の赴くままに莫大な情報に自由に触れることができるようになった。
今や、情報に接触する選択権は我々ユーザにある。
我々にとってはマスコミは、選択可能な情報源のうちのひとつでしかない。
マスコミの絶対的優位性はすでに過去のものだ。
ユーザはすでに膨大な情報源(ソース)を手にしている。
このような状況にあって、問題は選択だ。
マスコミが情報流通において絶対的なポジションを占めていた時代にあっては、広告をその中に織り込むことは容易だった。情報コンテンツと広告をうまくブレンドしてさえおけば、広告はほぼ自動的に生活者の脳に届けられた。
しかし、生活者が膨大な情報源を手にした現在にあっては、マスコミすら選択肢のうちのひとつでしかない。選択権はユーザにある。
この膨大な情報量の中に埋もれずに、生活者に対して広告を届けるにはどうすればいいのか。
この多様化したユーザニーズにヒットするためには、広告はどうすればいいのか。
「多様な選択肢の提供」がその解のひとつではないかと私は考える。
多様化したニーズには多様化した解で応える。ひとつの広告で全てのニーズに応えることはすでに不可能。 それならば、それぞれのニーズに個別に応えるような多様な広告を用意すればよい。
それはすでに始まっていることである。検索連動型広告において、企業はすでに膨大なキーワードを購入して生活者とのパスの形成を試みている。多様化したニーズに対応する試みはすでにして始まっているのだ。
多様な検索キーワードの購入が、多様化した生活者のニーズと接触する入り口とするならば、その出口であるランディングページの多様化もまた必須の流れである。
広告もまた多様化しなければならない。ニーズの多様化に合わせて、多様化した広告クリエイティブを提供する必要がある。
マスコミとの比較において、媒体掲載料が比較的安価なネット広告はそれを可能にする。多様化したユーザに多様化した広告を提供する。
選択権はユーザにあるのだ。
そしてインターネットには面白いものを見つけだすはたらきがある。面白いものを拾い出してくるフィルタリングの機能だ。ニーズにマッチしたものはネットによって拾い上げられ、スポットライトが当てられる。多様な選択肢の中から合意を形成する力がインターネットにはある。人気投票が機能する世界なのだ。インターネットは。
それは、ワンウェイコミュニケーションではなく、インタラクションの世界。
そして、このような多様化した広告を提供する手段として、広告の制作をユーザの手にゆだねるという方法があるのではないかと私は考えている。
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