希望という名の未来
私が小学生、中学生の頃、1970年代だがその頃、21世紀というのはまだまだ先のことで、未来の世界を意味していた。例えばの話だが、「プロジェクト21」というようなネーミングはすなわち現実の2001を目指したものではなく、未来志向のプロジェクトという意味を持っていた。
そしてその当時、未来という言葉は希望に満ちた、キラキラとした感覚を伴う言葉だったと思う。未来という言葉は、手塚治虫の鉄腕アトムの世界のような、或いは火の鳥に描かれていたような、よくわからないが何か素敵な世界のことを意味する言葉だった。それは決して極楽のような、全ての人が心穏やかに平和に穏和に暮らしているというイメージでも、ユートピアのイメージとも違っていたが、それでも確かに未来は素敵な世界のはずだった。
当たり前のようにロボットがいて人間にできない仕事したりしていて、空には宇宙船が行き来しているような、日常の足としての車は当たり前のように空中を飛んでいるような、そしてコンピュータが生活の様々なところにはいりこんで、いろいろな調整や制御を人間に代わって行っている。いや、もしかしたら私だけの感覚かもしれないが、未来とはそのような科学技術の進歩によって支えられた、素敵なところのはずだった。
今、実際に21世紀に入ってもうすぐ10年近くにもなるが、どうやら世界はそんな夢のような世界とは似ても似つかないあり様にある。ニュースは職を失った失業者の話題や相も変らぬ政治家の争いを流し、世界のどこかでは同じ国の中で人と人とが殺し合い、街にはロボットも宇宙船もない。日常はいかんともしがたく昨日と地続きでつながっている。
だが、私が問題にしたいのはそんなことではない。未来という言葉が輝きを失っている。そのことが問題だと思う。
未来に希望が感じられない。そのような社会は何か間違っているのではないだろうか。今、未来というものに人はどんな希望を託しているのだろう?未来は素敵なものだと素直に信じている人がどれくらいいるのだろう?未来に対する曖昧で漠然とした不安。そんなものを多くの人が感じているのではないだろうか?
未来は、きっと今よりも素敵な世界になる。そう信じることができなくなっているのではないだろうか。未来に希望を描くことができなくなっているのではないか。
希望に満ちた明るい未来像を描くことができなくなった。そのことが現在の社会の世相に暗い影を投げかけているのではないだろうか。
あなたは明るい未来を語ることができるだろうか。
我々は目指すべき理想を見失ってしまったのだろうか。
理想を、目指すべきゴールを持たない人類は迷走を続けるしかないのだろうか。
我々が目指すべき理想は、恐らくは科学技術の進歩ではなかった。私はそう思う。
人々が、争いではなく助け合う、そんな社会を目指すべきであったのではないか。
我々には技術の進歩ではなく、人としてのあるべき社会、その姿について考えを巡らすことこそ必要なのではないのか。理想とは何か?理想の社会とはどのようなものか?今こそ真剣にそのことについて考えるべき時なのではないだろうか。
我々はどんな方向に向かって進んでいくべきなのか?それは道徳なのか、哲学なのか、宗教なのか、私にはわからないが、今こそは「我々」として考えるべき時なのではないかと思う。すなわち、我々人類としてどっちの方向に進むべきなのか。我々人類としての理想とみなすものは何なのか。人類としての理想の世界とはどんな世界なのか、人類という視点で考えることが必要なのではないだろうか。
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