現代社会においては「見える化」が重要とされている。
全てが指標によってはかられる世界。数字によって勝ち負けが決定する社会。勝ちか負けかの一元論。
確かに数字は明快だ。
だがそれによって、本来人間の持つ多義性が失われているのではないか?或いは軽視されているのではないのか?
科学的世界観にとっては世界は均質だ。均質であるべきでもある。でも人間の感覚にとっては世界は様々な意味に満ちているのではないだろうか。事象の解釈は人によってまちまちだ。その多様性を受け入れるべきではないのか?
自分にとって、自分の人生の意味は自分自身で意味づけるべきものではないのか?勝ち組とか負け組とか周りからレッテルを貼られるべきものではないのではないか?
ほっとけやボケ!
自分で満足していればそれでいいのではないのか?他人から見て負け犬とか呼ばれて、そんなもん、気にする必要なんてあるか?
意味や解釈の世界においては、世界は多義性に満ち満ちているはずではないのか?同じ現象を観ていても、その受け止め方は人によって全く異なる。その多様性こそは受け止めるべきものではないのか?その解釈を一義的に定義すべきものであるのか?
定義を定めなければ、コミュニケーションが成り立たないのは確かに事実ではあるけれど。多義性を許容しなければ、詩という芸術は成立しえないと思うのだが。人間という存在にとって、多義性を許容することは根本的に重要なことだと私は思うのだが。
生きることの意味は人によってそれぞれ異なって当たり前のことだと思うがどうだろうか?多義性というものは重要なファクターだと思うが。
そこにも標準(ディファクトスタンダード)が必要なのだろうか? 均質化も行き過ぎると害をなすのだと私は思うな。
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