人の行うコンピュータ操作(情報行動)を情報環境との会話としてとらえる。
一般化して考えるために。概念を動詞として考えるために。本質をとらえるために。
ネットにある情報は、人が創った情報だ。言い換えると誰かに向けたメッセージだ。
そのメッセージの大半は蓄積された過去のもの。情報として発信された時点では未来へのメッセージとしてネットに送り込まれたコトバ。コンピュータの本質としての「蓄積」という概念がそこにでてくる。そしてそのメッセージとは、ある意味では独白的に綴られたコトバである。
それは書き言葉としてのエクリチュール。ある程度、自己完結したものとして綴られた言葉。
手紙や日記、出版物と同じ形式をもった言葉。言葉の形態としては新しいものではない。
メールのように1対1で交わされる言葉については従来のコミュニケーションと本質的な違いはない。
それでは1対Nで交わされる言葉についてはどうか?読み手を選ばない不特定多数に向けて発せられた言葉。しかしこれとて、新聞や雑誌といったメディアとして従来から存在していた形態である。
従来との違いは、以前はそのような形で情報発信を行うためには大きなコストがかかり、情報発信を行える人の数が極めて限定的であったこと。ネットによってその限定が解除され、多くの人にその機会が与えられた。これはN対Nのコミュニケーションが成立したということだ。情報の送り手と受け手の数が広がったということ。
そしてネットという開かれた情報環境の中で、ある人とある情報が出会う可能性が広がった。ひとつのソースの中にありとあらゆる情報が注ぎ込まれ、ぐつぐつと煮込まれている。
情報を探すためにあちこちのメディアにアクセスすることなく、ひとつのソースにだけアクセスすればよい。国内の情報にも海外の情報にも差はない。ひとつのソースであるから。コンピュータの本質である「検索」という概念が重要なものとして浮かび上がる。
だがしかし、エクリチュールとしての言葉の形態としては、従来の書き言葉と本質的な違いはない。
違いはその双方向性にあるのか。かつてのいかなるメディアにも、今のネットのような双方向性を備えていたものはない。
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