6 月 2012

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

« ガンダム映像のリアリティ | メイン | 【リブログ】コンピュータは人間の思考を変える - あたりまえのことではあるけれど »

2011/08/14

コメント

フィード コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。

ルート134

参考文献:筒井康隆 『おれに関する噂』
//

鍛冶 哲也

ああ。筒井康隆。実はこれ書きながらこの本のことが頭をよぎりましたです。でも内容についてよく覚えてないので言及はしませんでしたが。

なぜだかどいつもこいつも「おれ」の行動を全部知ってて、みんなが「おれ」の噂をしてるって、そんな話でしたかねぇ?

心の病気で実際にそんな症状もあるって聞いた気がします。被害妄想の一種?

まー、本人が思ってる程、まわりはおまえのことなんか気にしちゃいねぇよってケースもありますが・・・

鍛冶 哲也

そういえば、mixiなんかで大学生くらいの人達は結構へーきでプロフィール写真に顔出してたりしますね。出身学校とかも入学年度つきで書いてあったり。ニックネームなんかも本名に近いようなの使ってたり。(検証はとれませんけどね)

プライバシーに対する感覚・考え方にもジェネレーション・ギャップってもんが確実に存在してますね。

それからもうひとつ。町中が顔見知りのような小さな町に暮らしていると、本文に書いた有名人のような状況ってあたり前のようにあるかもしれないと思いました。

そうだとすれば、プライバシーさらして生活するってのもそんなに特殊な状況ではないのかもしれない。と。

mugendai

そういえば、グーグルのエリックシュミットが言っていました。

「人々は、記録が残る世界で生活しているということについて、今よりもはるかに注意深くなるだろう」と述べた。いたるところにカメラがある、ということにも気を配る必要があるだろう。 Schmidt 氏は「常に、何らかの形でメディアに露出していることになる。誰もが携帯電話を持つようになり、携帯電話にはカメラがついているわけだから、誰もがカメラを持っているということになる。誰もがデジタル写真のカメラマンなのだ」http://japan.cnet.com/news/media/20349145/2/

僕は、これをネタにグーグルの語る地球監視社会http://mugendai.bloggers-network283.com/2007/05/%E3%82%B0%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%81%AE%E8%AA%9E%E3%82%8B%E5%9C%B0%E7%90%83%E7%9B%A3%E8%A6%96%E7%A4%BE%E4%BC%9A.html
というエントリーを書いたわけですが、この問題は現在のFACE BOOKやGOOGLE+につながっています。

匿名か実名かでSNSを作っていくと、どうしてもプライバシー問題が噴出する。現在、FACE BOOKからは、盛んに写真を増やせというメールが来ますが、世界中が友達だとはどうしても思えない。どこまで、自分のプライバシーをさらけ出していいのか。神戸大学工学部の森井昌克教授はこう書いている。

集団意識の暴走はプライバシーの在り方をも変えようとしています。「プライバシーを暴く」という言葉があるように、プライバシーとは私生活そのものであり、「暴く」という積極的な行為を行わなければ侵されることはなかったのです。

ネットワーク社会では、この敷居が下がり、暴くと言う積極的な行為がなくとも個人のプライバシーを露呈することが可能になりました。現実の社会での、プライバシーを侵されないという受動的な姿勢から、プライバシーを守ると言う積極的な姿勢がネットワーク社会では要求されるのです。
http://srv.prof-morii.net/~morii/asahi/thisweek_bak/no181.html

[みんなの回答]ストリート・ビューとプライバシーの終焉http://mugendai.bloggers-network283.com/2008/09/%E3%81%BF%E3%82%93%E3%81%AA%E3%81%AE%E5%9B%9E%E7%AD%94%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%90%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%81%AE%E7%B5%82%E7%84%89.html

実名だから、本音が言えるという人もいる。一方、匿名だから本音が言えるという人もいる。この2つの考え方が混在しているのがこのSNSの問題点だと思います。森井教授の言うように、「匿名だから本音が言える」人を積極的に守る必要があるのではないでしょうか。

ルート134

失敗した、失敗した、失敗した、失敗した、失敗した、失敗した、失敗した、失敗した、失敗した、失敗した、失敗した、失敗した、失敗した、失敗した、失敗した、失敗した、失敗した、失敗した、失敗した、失敗した、失敗した、失敗した、失敗したー。

筒井康隆氏、小松左京氏、星新一氏たちがカナリアとしての働きに失敗しているようなので、参考文献は取り下げます。
//

鍛冶 哲也

mugendaiさん

プライバシーについての考え方も時の流れに従って変わってゆくものだろうとかは思います。テクノロジーも変わってゆくし、SNSのようなサービスも形は変わっても影響は増してゆくことでしょう。急速なスマホの普及は意外に大きな影響がありそうです。正直、これ程のスピードで普及するとは思わなかった。

SNSのようなサービスはユーザにとってスイッチング・コストは高く、シェアの急変は起こり難いような気はしますが、だからといってmixi いつまでも続くかどうかはわからない。新しい姿に進化するかもしれないし、新たなスタートアップにテイクオーバーされるかもしれない。それはわからない。

でもSNSのようなサービス自体は更に広がるのではないでしょうか。それはコミュニケーションのプラットフォームとして需要があると思うのです。それがOPEN ID等の技術によって相互接続される方向に向かうとよいのですが。

いずれはメールのようなコミュニケーションツールとして。

デジタルネイティブ達の数が増えてくるにつれ、プライバシーの考え方も更に変わってゆくだろうと思います。何しろニュータイプなんで、私のような古い人間には彼らの考えてることがわからんのですよ。

このような話をする時には時間軸の考慮が必要ですが、概ね10年くらいのスパンを考えています。ちょっと長いかな?10年先なら何だって言えちゃうかもしれません。

けれど、テクノロジーの進化に対して人間の習慣や文化の変化、ビジネスの浸透というものには意外に時間がかかる。既に死語となったWeb2.0にしても、その本質は2000頃にインターネット革命という文脈で語られていたことと変わりはありません。個人の情報発信やデータベースの活用というものは5年以上の時間をかけて実現に至ったのです。


それと、そもそもプライバシーとは何か?について。私には24時間名札をつけて暮らすような生活は考えられないですが、お互いが顔見知りのような小さな町で暮らしている人達はプライバシーの感覚が私とは違うかもしれない。と、そんなことを思うのです。

鍛冶 哲也

ルート134さん

筒井康隆、小松左京、星新一、平井和正。中学生くらいの頃に集中的に読んでいたので、私は彼らの価値観には影響を受けているような気がします。

特に、筒井康隆のミラーマンの時間という作品にはある種、トラウマに近いショックを受け、私の正義感はそれ以降歪んでしまったのかもしれません。


それと、手塚治虫とか永井豪とか。デビルマンを漫画で読んだのはハタチくらいの頃かもしれませんが。考えたら永井豪の他の作品はあまり読んでないかも。でも凄ノ王と手天童子は読んだかな。テレビのマジンガーZやゲッターロボは見てましたが、私にとっては永井豪といえば何と言ってもデビルマン(漫画の)。

私の場合は手塚治虫の影響はおそらくとても大きいです。

Epouvante

「現在の情報技術はプライバシーを消滅させるが、誰もがそれに適応しなければならない」と唱えるSF作家デイヴィッド・ブリンの「透明な社会/transparent society」をめぐる議論をチェックしておいたほうがいいです。

ちなみに、
>プライバシーに対する感覚・考え方にもジェネレーション・ギャップってもんが確実に存在してますね。
子どもが平気で自分を露出するというのは、もう十数年前から言われていますから、安易に結論に飛びつかないほうがいいと思います。就職したり、家族ができたりするタイミングで、必死にばらまいた情報を消して回るという現象が見られていました、

鍛冶 哲也

Epouvanteさん

重要なコメントありがとうございます。ディヴィッド・ブリンの透明な社会という議論、しらなかったのでチェックしてみます。
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Transparent_Society

英語なので辛いですが。

ただ、技術は勝手に進化していくのでプライバシーを本当に守るためには法律で規制をかけていかなければいけないということですね。何もかもがオープンになってゆく方向性に対して、どこまで個人の秘密を守るべきなのか。結構、根源的な問題なのですね。

小さなコミュニティに暮らしていた昔に戻るのか?という問題も含んでいるのですね。

もうひとつ。ジェネレーション・ギャップ。子供は知らないから出しているだけ?

これも先の問題に絡みますが、守るべきプライバシーとは何か?プライバシーの定義を定めないことには議論が先へ進まない気がします。

それは例えば、現金での支払いには足がつかないが、クレジットカードによる支払い、口座振込み、スイカ等の電子マネーによる支払いは全てログが残る。そんな問題にもつながる。

カードでエロビデオ買おうがソープ行こうがコンドーム買おうがテンガ買おうがラブホの支払いしようが構わないじゃないか。というのが私の立場ですが。人間はそういう生き物なのだから。そう私は思うのですが、そういう行動を隠したいと思う人には受け入れられないことかもしれません。

そう考えると所詮は感情の問題にも思われます。

いずれにしても思いのほか重たいテーマに足を踏み入れてしまったのだということはわかりました。簡単には結論はでない。

逆に言うと、田舎暮らしと都会暮らしのギャップは思いのほかに大きなものになっているのか、とも思いました。いいわるいは別にして。

鍛冶 哲也

突き詰めると裸で生きていけるのか?それとも何を隠すのか?そういうことかもしれない。

メールにしても、ブログも、SNSも、プロフも、ツイッターもいずれも自分をさらすことには違いない。

それが不特定多数に対する情報開示であることについての自覚が足りないケースは現実にあるのだと思います。

でもそれって程度の問題じゃないか。閉じこもってひとりで生きていくことなんてできないとするならば。コミュニケーションが必要であるのならば。自分の情報を開示することは避けられない。

その開示の程度の問題であるとするならば、それは人それぞれの個人の問題であって古くて新しい問題。

だって、着る服や髪型だって自己表現だし、Lady GAGAみたいにやるやり方だってあるわけで。どこまで周りと違うことをやり、どこまで自分をさらけ出すかという選択肢はいたるところであるはず。

自分のことを隠したいヤツは引きこもって隠れてばいいさ。なんて極論も成り立つ。

どうにも面倒くさいな世の中は。
 
 
 
 
 
 
 
ただし、自分の顔はさらさないで、匿名の陰に隠れて言いたい放題してるようなヤツは私は信用しない。そんな意気地のないヤツをプライバシーの名の下に守る必要は、私は認めない。他人を批判するなら顔を出せ。そう思う。

ルート134

Epouvante さん。

>デイヴィッド・ブリンの「透明な社会/transparent society」<
ちらっと、言葉だけなにかで見ただけですが、「ガイア」でも老人(比較的富裕層)たちがセキュリティカメラを身に付けているという部分がありますので、そのへんから推測は出来ます。

ええと、ITってその手の技術が、特別な職業でなくても手にすることができるように格安になるってことか。

昔SFだと、カート・ヴォネガット・Jr.の「プレイヤーピアノ」とかジェイムズ・ティプトリー・Jr.の「接続された女」とかは、そうなっていない時代を反映しているので、マスメディア(TVネットワーク)主導になっていますが、ネットでも企業が意図して行う部分もあるし、警句としては時代遅れとは言えないと思います。それ程の力を一時的にでもふるえるのが政府・企業だけじゃなくなったというだけで。

メディアとテクノロジーによって、あっという間にブーム(炎上)が起こるというのは、ラリー・ニーブンの短編「フラッシュ・クラウド」が記憶に残っています。『ガラスの短剣』に収録?
//

鍛冶 哲也

この投稿をコメントも含めて読み返してみました。

重要なポイントはこれだと思った。

「ネット上で公開している情報と、リアルな世界に生きている本人とをリンクすると問題になるというのも、考えてみるとヘンな話だ。」

つまりは匿名にせよ、実名にせよ、ネット上で語る際の人格というものはリアルとは別につくられる。

ネット上の人格は通常、映像も、しゃべり方の癖も、体臭も、顔の表情もともなわない、限られた情報により構成される。人格イメージにおけるコトバの占める割合が大きい。

つまりはネット上の人格は、そもそもリアルと同じではない。

仮想性あるいは虚構性の強いネット上の人格とリアルの人格を結びつけることを強制するべきかどうか。それを切り離しておきたいという権利を認めるべきかどうか。

問題の立て方としてはこっちの方が適切な気がします。

そしてこのネット上の人格。本文では、有名人のプライバシーを例にあげましたが、むしろ、ペンネームを使う作家の方が例としては適切かもしれない。

ペンネームで書く人はたくさんいるだろう。ペンネームは有名でも、実名は知られていない人はたくさんいるだろう。

その人たちは、言わば言論世界における人格とリアル世界における人格を切り離して使い分けている。

いわゆる作品と作者は別だという考え方だ。

作者がその私生活においてどんなにダメ人間、くず人間であっても、その作品が美しければ、その作品の価値を減じることはない。

そういう考え方はある。たしかに。

私はその考え方には賛成だ。小説家であれ、漫画家であれ、映画監督であれ。或いは俳優、シンガーであれ。そういう表現者に、私生活において聖人君子であることは求めない。

確かにそうだが。一方で言行不一致という考えもある。言うことは立派だがやってることは全然違うじゃん、という人は信じられない。そんなケースだ。言行不一致を許せないケース。

例えば、宗教家。思想家。評論家。教育者。政治家。医者。弁護士。コンサルタント?いわゆる「先生」と呼ばれる職業の人たちか。警察の人なんかはどうだろう?経営者は?

いわゆる指導的立場にある人。偉そうに説教たれる人たちは、言行不一致が許せない気がする。人としての真摯さ、誠実さを求められる立場というものはあるような気がする。

言行不一致が許される人と、許されない人。その違いは何なのだろう?

それは職業なのか?それともその言葉の、その言説の内容なのか?

そして、仮に言行不一致が許されるなら、その人は仮想人格とリアルな人格とは切り離しておくこと、すなわちプライバシーの保護が許されるということか。

それとも更に進んで、仮想人格とリアルな人格とが結び付けられた上で、そこに違いがあることを、受け手によって許容されるということか。それは俳優がインタビューを受けて、役柄とは違う自分の考え方を述べるようなものか。その場合の人格の違いは、公開された上で許容されている。そんなものか。

俳優が、俳優という立場でインタビューを受けて語る言葉は、しかし俳優という役割を演じているのであって、その人の「素」の言葉とは限らないというややこしい問題もあるが。当然、その俳優の過去の出演作品とか、ファンの期待とか、そういう俳優としてのブランドイメージってもんもあるわけだから。

そういうのひっくるめて情報公開/非公開は自分で決めてるわけだからそれはいいのか。今回の問題は本人が非公開にしてる情報はあくまで非公開であることを前提にしているのだから。本人が公開している仮想人格をリアルの人格と結びつけることの是非を問題にしているのだから。

鍛冶 哲也

上の私のコメントはちょっと混乱しているな。

ネット上の人格というアイデアはおもしろいけれど。

「ネット上の人格をリアルと結びつける」という言葉の意味を定義する必要があるみたいだ。

ネット上の人格と実名が結びつく。これは仕方ないんじゃないかな。実名でFacebookとかやってれば仕方ない。今だって、人力検索ですごい時間かければいろいろやれちゃうんだし。それがいやならFacebookなんてやるなってことでしょ?

もうひとつ。リアルで人前で行動してる時に、ネット上の人格と結び付けられる。これはやっぱりAR技術のイメージだ。

これはさっきの例でいうと、顔出ししてる俳優の場合は日常にあることだろう。仮想人格と実際の本人のギャップの存在は、それは当然のこととして受け入れられるべきことではないだろうか。有名人であれ無名人であれ同じことだ。

例えばコンビニで買い物してる時に、いきなりネット上の人格に対して論争しかけられても困るかもしれない。これも有名人の場合には実際にあることかもしれないな。でもそれってマナーの問題なような気もする。

ネットで議論できるのだからそれはネットでやればよい。

そしてそもそもネットで有名でなければそんなことは起こらない。

「注目を集めることにメリットとデメリットの両方がある」というのは、案外、的をついた考えかもしれない。

この記事へのコメントは終了しました。