“「頑張ること」それ自体に価値があるのはアマチュアの世界、価値がないのがプロフェッショナルの世界である。”
プロにとっては結果が全てである。結果につながらなかった努力は、それがどれだけ大きなものであったとしても、他人にとっては何の意味もない。ゴミだ。
そんな内容のブログを読んだ。あたり前のことだと思う。書いているのは白川克というコンサルタントだ。
あなたの作ったものはゴミである、あるいはプロとアマの分岐点 ~プロジェクトマジック~ by 白川克 http://blogs.itmedia.co.jp/magic/2012/02/post-fef7.html
ところがこのブログに寄せられたコメントの数々が私の興味を引いた。
感情的な反発が多いのだ。いわく、「こんなブログの内容自体がゴミだ」とか、「いかにもコンサルタントっぽい言い方だ(悪い意味で)」とか。
理由もなくダメ出しをしているコメントが多い。理由をつけているものも、ゴミかどうかの判断をするほどの能力がそのブログの筆者にはあるのか」といった立場を問題にしており、論旨がかみあっていない。それらのコメントは脊髄反射的で感情的であるように思えるのだ。
「ゴミ」という言葉に過剰反応しているようにも感じられる。まるで自分のことを「ゴミ」呼ばわりされたかのように。実際、そのように感じているのではないかと思う。無意識のうちで。コンプレックスを抱えているのではないかと思えた。
それらのネガティブなコメントの雰囲気は、にちゃんねるの感じに似ている。批判の対象のブログはITメディアのオルタナティブブログなので、読者層は違っていると思うのだが。
今のIT業界には、そうしたルサンチマンに満ちた空気が流れているのだろうか。コンプレックスを大量生産するような状況にあるのだろうか。
まあ、一般的な傾向として、コンサルタントという人種は断定的な言い方をするというのはある。曖昧な言い方をせず、すっぱりと言い切る。そして、コンサルタントとはダメ出しをするのが仕事の一部だ。クライアント企業にダメ出しをして改善策を売るのが商売だからだ。言葉とロジックは商売ネタだ。ディテールは端折って判り易く明快に語るのも得意だ。ディテールにこだわっていては決断は下せないからだ。
こうした語り口は、上から目線に映る。そういう部分はあるだろう。勝間和代さんなんか、そういう特徴が顕著なんではないだろうかなんて思う。
そして、そういう言い方に、反射的に反発する人達も多くいるのだろう。
想像だが、そういう言い方に対して、自分に対する攻撃と受けとめているのではないだろうか。勝間氏に対する批判には、「それは強者の意見だ」というたぐいのものが多いと思う。「弱者の切り捨てだ」というような。
そして、ネットにはそうした下から目線の意見が比較的多いような気がしている。ま、ネットはフラットだから。誰でも何でも言えるのがネットだからね。金持ちも貧乏もなく、立場の上下もなく、社会的地位も関係なく、賢者も愚者もなく、有名無名も関係なくものが言えるのがネットというフラットでオープンな場だ。
最終的には判りやすさとロジックが勝るのではないかと思うが。しかし、ネットで多数決を取ると、ルサンチマンをもった下から目線の意見が多数になるのかもしれない。
それはネットが悪いのではなくて、ルサンチマンを抱えた人間を大量に生み出しているこの社会がよくないのだろう。不公平感を大量生産している社会制度が。
ネットのこの過激なフラットさを、リアルワールドにもっと移植していく必要があるだろうと私は思う。世界をもっと公平に。
もっとハッピーな世界をつくっていきたいと願うのだ。
それにしてもどうしてそんなにルサンチマンを抱えた人が多いのだろう。
どうしてそんなにも不幸なのだろう。この国では餓死する人は稀である。貧乏でも携帯電話は持っていたりする。他の国と比較しても、そして過去の歴史と比較してもこの国は豊かだと私は思う。それなのになぜそんなに不幸なのか。
これほど価値観が多様化しているというのに、どうして人は金持ちかどうか、社会的地位が高いかどうか、そんなことで幸福を測ろうとするのだろう?
どうしてそんなに金持ちや成功者を妬むのだろう?
どうして自分の中に王国を創ることができないのだろう?
いや、自分の中の王国と自分の外に広がる世界とがコンフリクトしているのが理由なのか?
それって単にコドモだってことだよな。
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2012/02/25 12:49
>それって単にコドモだってことだよな。
通過儀礼を怖がって受けてないように思いました。進学校の劣等生で、まぁ学校のゴミだった私ですが。下っ端でも、まぁ駅弁国立くらいは受かるワケでして。
就職したら就職したで、「エリート面しやがって」という、よく分からない非難を受ける不条理。
劣等生の持つスキルってのは「自分が否定されることに慣れている」ということなのかなぁと思うのです。
投稿情報: Account Deleted | 2012/02/25 21:11
「自分が否定されることに慣れている」ですか。なるほど。
そういえば、もとコンサルタントの勝間さんはひろゆきとの対談での上から目線的な態度が批判の対象となって自分のブログが炎上して、その時にブログのコメント欄を封鎖してしまったことがあって。
その時には、否定されることに慣れていないのかなという印象はあったかも。ひろゆきとの対談のテーマのひとつが「ネットは実名にするべきかどうか」だった訳で。匿名だから無責任な非合理な批判が横行するので実名を強制するべきだという勝間さんの意見は、対談以前からネットでの批判にはさらされていた経験があってのものだったのでしょう。
まあはたから見ていてもあの人の言動には、叩かれやすい何かがあるように見えますからね。
ただ、私が思うのは、金持ちとか成功者と呼ばれる人達が果たして幸せかというとそうではないような気がするのです。むしろ金持ちでかつ幸せでいることの方が難しいことのように思われるのですが。
仏教が説くように欲望はなるべく捨てた方が幸せになれる。
それにしても、ネットで吹き荒れる批判の言葉は確かに人を傷つける力を持っている。暴力のひとつであるとは思う。けれどそうした暴力を振るう人達がおそらくは恵まれない環境にあるのだろうという想像があって。
こんな考え方自体も上から目線なのかもしれないと思いつつ。暴力を振るう人が少なくなるような方向に世の中が進むためには、何が必要なのだろう?
その答えもまたネットの中にあるのではないだろうか、なんてことを夢想するのです。人と人とのつながりの中に。
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2012/02/26 09:50
興味深く拝読しました。
うーん、私、ものすごく「多幸感」を持っているので、そしてそれはきわめてナチュラルなので、ウラ勝ち組なのかな、と(笑
珍しいのでしょうかね、こんな人間は。
身の丈にぴたっと合った生活をしている、という自信が多幸感につながっているのかもしれませんね。上でもなく下でもなく、ほどよい感じで。ぴたっと合わせるのもけっこう難しいもんです。
あ、神経質ではやってられないと思いますね確かに。僕は神経質じゃないことにかけては自信あります。そして、昔は神経質でした。これは治せます。
投稿情報: 龍澤英暁 | 2012/02/26 20:47
上でもなく下でもなく身の丈。その通りだと私も思います。幸せを感じるためには身の丈の自分を受け入れ、肯定することが大切だと。
身の丈以上の自分を求めると、いつまでも満たされることがない。そしてその不満や不安は他者への攻撃に向かうことが多い。自分よりも幸せそうに見える他者への憎しみに。ルサンチマン。
そしてまたどうせ自分なんてといった自己否定もまた幸せにはなれない。自己卑下という姿勢もまた間違っていると私は思います。
結局、それらは基準が自分の外にあるのではないかという気がする。価値の基準が自分の中にないのではないか。自分を基準にするということは自己満足を追求するということでもある。そしてそれは自分さえ満足すればそれで幸せを感じることができるということでもある。
ではどうすれば自分を満足させることができるか。自分で判断すること。自分で目標を定めること。自分が何を求め、何を快く感じるのかを知ること。そしてそれを得るための努力をすることでしょう。
それを自覚的に進めるならば、結果の如何にかかわらず満足を得ることができるような気がします。結果が望どおりでなくても満足を得ることが可能であるように思います。
自分が何をやり、何をやらなかったか。満足の基準がそこにくるから。全ては自分次第だと思うことができれば。
だってどんなに頑張ったって天気を変えることはできないから。変えられないものを変えようと努力するよりも、変えられるものに向かって努力するべきでしょう。変えられるものを変えていく。
変えられるもの。それは自分。自分の行動。それを通じてもっと大きな目標を目指すということは別に矛盾しない。自分を変えることを通じて世界を変えることを夢想することは可能だし、それは限りない欲望にとらわれることにはならない。
うまくいえないけれど、それは身の丈を肯定しながら、それを大きくしていくことを目指すというような感じ。
ちょっと違うかな。
世界を変えるとすれば、それをするのは自分ではなく共感。その共感を広げるプロセスに自分が関わることは充分に可能なことであるはずだと。
ポジティブであることは大切なことだと思います。
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2012/03/03 11:10