データはクラウドに向かっている。ローカルには置かない。雲の中に置いておいて必要な時に取りにいく。
テキストも、フォトも。リンクも。いや、これからはイメージコピーか。
そうなると、端末側にはディスク容量は不要になっていく。作業の間だけ、一時的に保存できるだけの容量があればいい。大容量はいらない。
そうなると、フォトはムービーに置き替わってゆくだろう。どんどんムービーを回して、それをどんどんクラウドにアップロードしていく。端末にはデータは残さない。クラウドには動画が、どんどん蓄積されてゆくだろう。
動画は動く。
あたり前だけど。カメラアングルも動く。被写体の背景に、あなたが偶然写る可能性がこれまでよりも高くなる。瞬間を切り取るフォトと違い、ムービーは時間ごと切り取るからだ。切り取る量は多くなる。偶然、そのバックをあなたが通りかかる可能性は高くなる。みんながそれをやりだすと。
記録は残る。時間は保存される。ムービーの伝える情報量は、確かに多い。フォトよりもムービーの方がはるかに饒舌である。(ただしこれは一般論である。ものによってはムービーよりも饒舌なフォトもあるだろう。)
あなたの秘密の行動は、バレる可能性が高まる。あらゆるスマホが、監視カメラとなる可能性を秘めている。プライバシーはきっと今よりずっと小さくなる。必然的に。どこで誰がみてるかわからない。それは止められない。
それは新しい時代の新しいBIG BROTHER。でもそれは新しいスーパーエゴになるかもしれない。自制。セルフコントロール。自分の行動を客観的に観察する契機になるかもしれない。自省。
それはモラルの向上につながるかもしれない。恥ずかしくない行動をせよ。
「汝の意志の格率が、常に同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ。」
どこで誰に撮られているかわからない。そしてもしかするとそれがどこで公開されているかわからない。そういう状況がもしかしたら、人の行動における「見られているかもしれない」という自覚につながり、自分の行動に対する責任、自己チェックという形で倫理観、モラルの向上につながるかもしれない。
この投稿に対して、Twitterで「まさに、お天道様が見ている」というコメントをいただきました。
それだ! That's it!
宗教の影響力が小さい日本人の行動モラルの基盤は、まさにその「お天道様が見ている」という感覚にあるのではないかと私は思うのであります。その感覚は非常に重要なものではないか、と。
自己中心的な考え方と、周囲の人間との関係の調和をはかる考え方と。そのふたつの対立する基準の中でバランスをはかる日本人のありかたというか。
このブログでは、「空気ばっか読んでんじゃねぇ!」という意見を何度か書いておりますが、だからといって、単純に自己中でいい!と言いたい訳でもありません。
自分は何を望み、どうしたいのか、ということについてはもっと深く自分自身に問いかけるべきであろうと思う。そしてその上で、他者の存在、他者の考えに対しても先入観を排して聞き入れ、双方の相互理解に基づいて、その対立を乗り越える第三の案を見つけ出してゆく。人間社会のそれがあるべき姿ではないか。
どうすればそれが実現できるのだろう。大きな、とても大きな課題です。そして切実。
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2011/11/19 07:37
腕時計だったけど。
「ヤマビコ13号」松本零士
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投稿情報: ルート134 | 2011/11/19 20:15