まあ、言われてみればあたりまえっちゃあたりまえな話。
ツールがあって、ネットにつながっていれば、それを使うのはおかしなことじゃないでしょう。
子供達がネットの様々なサービスを我々と同じように、或いはそれ以上にたくみに使っていても不思議じゃない。そうは思うけれどもね・・・
中学生、高校生くらいだと、我々と全く変わらないと思った方がよいのでしょう。いや、その使い方の面では先をいってると思った方がよいのか。
最近の子供・学生がデジタルネイティブすぎる・・・ツイッター報告まとめ
今の子供達の情報環境は我々の子供時代とは全く異なっている。それは事実。そこにメリット・デメリットはあるだろうが、それへの備えよりは事実が先行している。
多くの情報に接触しており、検索や共有も使いこなしている。それは止められない流れだし、制限をかけるべきことでもないと考える。というよりも制限することは不可能であろうと思う。
そうであれば、むしろその使い方や、リスクや情報の質の見分け方、あやしいサイトやあやしい情報の判断の仕方、個人情報の公開範囲、その危険などなんでも教えてやるべきだろう。何度でも。
彼らデジタルネイティブを子ども扱いすることは危険だと感じる。大人と同じように扱うべきだろう。自分の子供の頃と同じように考えては絶対にいけないでしょう。彼らは恐らく我々よりはるかに早熟であるだろう。
だが、知識はあっても判断力はない。たぶんね。もちろん人によるだろうけれど。情報を全て本当のこととして素直に信じてしまう恐れはあるでしょう。
CGや画像合成によって事実とフィクションの違いが判りにくくなっているので、その判別も(或いはその判別がほとんど不可能であるという事実を)教えなければならない。
でもそれ以上に必要なのは、身体で覚えるということがどういうことなのかということ。体験することの意味。そして自分の頭で考えるということの必要性も。
情報接触量が多くなることによって、そういう身体で考えることが軽んじられるようになってはいけないだろうと思うのです。その理由を理解させるのは恐らく難しいことであろうけれども。だってググれば答えが出てくる訳だから。
その出てきた答えの確からしさを自分で判断することが大切なのだと、そこんとこを教えてあげなければ。少なくとも出てきた答えを10個くらいは目を通して比較検討しなきゃね、みたいなこと。
もう一度言う。「身体で覚えること」と「自分の頭で考えること」。
考えなくなるよねきっと。今まで以上に。
子供に地頭力について教えなけりゃいけないのか。
推理するチカラでもいいかも。
でもうまくすると、情報の処理能力は格段に進歩するかもしれない。
社会全体が非連続な変化をとげる可能性もあるかもしれない。ジェネレーションギャップが、世の中のスクラップ&ビルドを生みだすかもしれない。断絶的な進化を。
なぜなら隠し事ができなくなっていくからだ。意図するとしないに関わらず、暴露系の事件は増えてゆくことが予想される。昨年のウィキリークスや尖閣諸島の漁船の映像のリークのような事件が。オリンパスの不透明な企業買収や大王製紙会長の不透明な借金のような暴露も。内部告発も。これまで以上にその引き金は軽くなっている。というよりもそれが簡単になっている。
昔の映画なんかでは、企業や政府のような大組織の不正を個人で暴くような物語の結末はその証拠をマスメディアに持ち込むという終わり方が多かったが。今ならネットでしょ。
隠せないということは不正を正すチャンスは拡大することにつながるはずだ。
何が正しいかは別にしてだが。
つながる脳。相互リンクで接続された脳。NETWORKED BRAINS.
対話の拡大。EXPANDED DIALOGUE.
COMMUNICATION EXPLOSION.
集合知。WISDOM OF CROWDS.
合成の誤謬。
私は、集合知の一部でありたいと願う。
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2011/11/19 11:20
デジタルネイティブに関する記事をふたつほど。
デジタルネイティブの特徴
http://ohst.jp/dnu/?p=462
立教大 高橋利枝 デジタル・ネイティヴの情報行動
http://global-digitalnatives.org/pdf/nagoya.pdf
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2011/11/23 17:42
この投稿の本文は、ちょっと言いたいことがうまく言えていない。
デジタルネイティブによって、社会が非連続的に変化するかもしれない。過去を断ち切ったスクラップ&ビルドが実現するかもしれない。
その期待の理由は、情報が隠せなくなるからではないな。
大きな変革実現の期待は、合意形成の新しいやり方を彼らデジタルネイティブが生み出してくれるかもしれないという期待だ。四六時中、ネットを介して相互につながり、思考や情報を共有することがあたり前になっている彼らは、旧世代の我々よりもうまく合意形成をするやり方を見つけるかもしれない。
広く、薄くつながるのがうまい彼らは、意見の対立を乗り越えるのが我々よりもうまいかもしれない。意見の多様性を認めた上で、共通理解を築くのがうまいかもしれない。
希望的観測かもしれないが。それでもそれを期待する。強く強く期待する。それはほとんど祈りにも似た思いだ。
彼らに対する私の理解は、もしかするとあまりにステレオタイプかもしれない。彼らの現実はそんなものではないのかもしれない。
或いはもしかすると、対立を避けるのがうまいということは、単に「空気読んで」動いてるだけかもしれない。それは衆愚につながる可能性も確かにある。
しかしそれでも私は彼らに期待したい。1対1のコミュニケーションではなく、多対多のコミュニケーションをあたり前に育った彼らには。
つながった脳を持つ彼らには。
合理的な結論を見つけ出す群衆の英知を使いこなす能力が我々よりも高いものが備わっているはずだと。
人間存在のステージをひとつ先へと進めるニュータイプであるはずだと。
それを期待する。
そしてそれを後押しするオールドタイプの一員でありたいと私は願う。そういうもので私はありたい。
投稿情報: 鍛冶 哲也 | 2011/11/23 23:44