そう。コンピュータはかつて電子計算機と呼ばれていました。
電卓と呼ばれる電子卓上計算機とは兄弟のようなものでしょうか?(そんなことはない)
しかし、私にとってはほぼ、ネットにつながるための機械です。
今、このブログを書いているノートパソコンにはWordもExcelもPowerPointもはいっていません。考えてみるとこのパソコンには、セキュリティソフトと、FirefoxやGoogle ChromeやSafariといったブラウザ以外、これといったアプリはインストールしていないかもしれない。買ったときのそのまんま使っている。
約2年前に、「ネットにつながるための機械であるならば」という記事を書いた頃の状態と変わっていない。
そういえばEvernoteのアプリケーションソフトはインストールしたけれども、このサービスはWebでも使えるのでそっちがメインだ。
私にとってパソコンとはコミュニケーションのツールな訳です。
「[お題]オーダーメイドできる通信端末」という記事で、iPadはインターネットにつながるためのネット端末であり、末端ノードである、と書きました。
まもなく普及率においてキャズムを超えるであろうスマートフォンもまた、名前はフォンですが、その実体はコンピュータです。電話機に付加価値がついたものではない。逆ですよね。電話もできるコンピュータ。
そう、コンピュータはコミュニケーションの道具となりつつある。
クラウド化の進展によって、もはや情報処理の機械ですらなく、ネットとのインタフェースへと向かっている。ローカルで情報を処理する必要がどんどん少なくなっている。
mixiやTwitterやFacebookといったサービスに触れている時間が長くなるにつれ、その傾向には拍車がかかっていくでしょう。
それは常時つながっているのがあたり前の環境であり、従来のコミュニケーションという概念からは既に離れているような気がする。インスタント・メッセンジャーが流行っていた頃は、これにちょっと近かったかもしれません。あれはメール以上に手軽だったから。
常につながっているという感覚。
それが意見交換を活発にし、自分とは異なる意見を持つ人との議論やコミュニケーションのスキルを深める方向にいけばよいのだけれど。ネットは検索という技術により自分と似ているテイストを持った仲間を見つけることが容易であるがゆえに、同じ考えの人同士のグループ内では濃密なコミュニケーションがはかれても、意見の違う人とはうまくやれないという方向に進む可能性もはらんでいる。
オープンでフラットなネットという場が、意見の多様性を肯定し、その多様性の中から方向性を見出すスキルを磨く場になっていって欲しいと願う。
原発の問題にしろ、TTPにしろ、普天間にしろ、賛成派と反対派に分かれて互いに自分の言い分を声高に主張するばかりで一向に議論はかみ合わず、妥協も方向性も見出せない状況を目の当たりにして議論のスキルに関する危機感を覚えているのでした。
それに比べると、先日のギリシアの国債問題への対処を議論したEU首脳のトップ会談は夜を徹した10時間あまりの議論の末に、一応の協力をとりつけた。本当に10時間も議論したのかどうかは知らないけれど、とにかく何らかの結論を出すという点で、ヨーロッパの紛争解決の伝統の重さというか、交渉スキルの高さというか、危機感の深さというか、レベルの高さを感じたのでした。
コブシではなく言葉で問題解決をはかる能力というのはやはり知性なくしてはできないことだと思うのです。
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