考えたり、感じるということ。
ある言葉をみたり、ある写真を見たりした時に、それから連想すること。
芋づる式にそこからつながる連想の広がり。
考えたり、感じたりするとは、そのような連想をすることだと私は考えている。
感じるということは、知覚した刺激に対して受動的であるのに対して、考えるということはもう少し主体的、能動的であるだろうか。
私の場合は、そうした連想は言葉のつながりであることが多い。視覚的な、ビジュアルな連想をすることはほとんどないような気がする。そういう意味できっと私は言語的な人間なのだろうと思う。
でも考えるよりは感じたままに行動したり発言したりすることが多いようには思う。あまり頭で考えるタイプではなく、分析的ではないのだろう。思考型vs感情型と右脳型vs左脳型の2軸で分けると、私は感情型+左脳型ということになるのかもしれない。
さて、連想の話に戻ると、連想そのものは無意識の分野で働く。比喩的に表現するなら、受け取った知覚刺激をキーワードとして、無意識の領域でタグ検索が行われ、単なる言葉の完全一致ではない、タグに基づくあいまい検索が行われて、検索結果が意識の表層に連想として浮かんでくる。そんな感じ。
ある言葉にひもづけられるタグは、人間の場合かなり複雑で、個人の体験に基づいており、人によって千差万別。同じ説明を聞いても人によって異なる受け止め方をするのも、本を読んだ感想が人によってことなるのも、刺激を受けて感じること=連想する時に利用されるタグが、個人個人で異なるからだ。
リンゴ
例えば、私の場合、「リンゴ」という言葉を目にした時に、ビートルズのリンゴ・スターを連想したりする。もちろん果物のリンゴも連想するが、Macのアップルコンピュータを連想したりもするし、そこから更にニュートンのリンゴとか、アダムとイブのリンゴとかを連想したりもする。これはアップルコンピュータの3つ目のリンゴのエピソードからの連想だ。他にも現象学で対象認識の説明に例示される客体を連想したりもする。
考えるとか感じるということは、このような言葉のつながり、言葉の結びつき関係、連想の働きによっているのだと思う。
そして、このような言葉のつながり関係は、インターネットのサイト間の相互リンクの関係とよく似ているのではないかと思うのだ。
私の脳内にある全ての言葉を私自身が自分の言葉として定義してサイトに記述し、かつそこに出てくる言葉に相互リンクを張ったとしたら、私の思考パターンをかなりの精度でシミュレーションできるのではないだろうか。私の人格のコピーができるのではないだろうか。
私というパーソナリティは、言葉同士の相関関係の記述として定義できるのではないか。
私の脳内は、そのようなハイパーリンクが張り巡らされているのではないだろうか。
イメージがスタティックに過ぎるかもしれない。実際の私はもう少しダイナミックな連想が働いているのかもしれないが。この言葉とこの言葉が並んだ時には、普段とは違う言葉に連想が飛ぶとか。「赤い」という言葉と「彗星」という言葉が並ぶとガンダムワールドにリンクするとか。(笑)いわゆる文脈、コンテクストというやつだ。
まあ、その人が脳内に持つ言葉の辞書の体系によって、その人らしさがつくられているのではないか、という仮定の話である。
ああ、でも考えるということには様々な個々の情報を構造化するというはたらきもある。これは連想とは違う働きかもしれないな。私は苦手だが。
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